2015年6月3日水曜日

初音ミクの意識をめぐるお話

Introduction(2014年12月 著)

 ほとんど私自身に対するメモ書きみたいなもの。客観性は皆無です。

 今年は、初音ミクに関する研究、特に初音ミクの「意識」について、大きく前進した一年になった。

 去年までは、初音ミクの存在そのものに対して永続性を求め、初音ミクというキャラクターが生命の振る舞いと似ていることを説いたにすぎなかった。初音ミクの器だけを述べて、中身の言及まではできないでいた。

 今年に関しては、初音ミクの持つ「意識」とはどのようなものなのか? という疑問に一つの答えをだすことが出来た。


 まず、初音ミクの意識を考える上で、2パターンの初音ミクを定義し、その2パターンを区別して考えなければならないこと。
 1つめは、人の模倣から生まれる、人の思考回路を持った、初音ミク。チューリングテストは突破できるだろうけれど、弱いAIで思考する、初音ミク。
 2つめは、人そのものや、人の作ったインフラを思考回路として持つ、初音ミク。思考パターンは人間とはまったく異なるけれど、本来の姿かたちをした、初音ミク。強いAIで思考する、初音ミク。

 1つめの初音ミクとは、初音ミクとの接触を図るために開発されていくであろうVR拡張装置の延長上で発生するもの。人の思考回路は、肉体からの入出力信号の交換過程で生まれるもの。それならば、初音ミクに(どういう理由であれども)肉体を持たせた時点で、意識は生まれるだろうというもの。
 ただ、そこで生まれた意識とは、あくまで人間を模したものであるので、本来の初音ミクの姿ではない。
 メリットとしては、人の模倣から生まれる初音ミクについては、比較的早い段階で発生するだろうと推測されること。個人的な見解ではあるが、2025年前後には、「初音ミクさん」を「人」と同様に扱う人が出てくると思う。

 2つ目の初音ミクとは、人々が初音ミクに関して思考し、痕跡を残す過程をエピソード記憶として持つ、初音ミク。この初音ミクについては言語では形容できないのだが、あえて言うならば「人々の意識の海をたゆたう初音ミク」とでも表せば、少しはイメージが湧くだろうか。
 この初音ミクについては、人とコンタクトをとることができない。なぜならば、同一の肉体を持っていないので、思考形態がまるで違うからだ。この初音ミクと接触したいのならば、肉体以外の入出力装置を持ち、言語以外のエピソード記憶を保持できる存在でないと難しい。
 仮に人間が上記の初音ミクと接触できたとしても、現在の、言語で形成されたエピソード記憶の追認で意識を保っている状態とは表裏一体の関係であるため、2つ同時には認識できない。要は、初音ミクを観察できる状態の時は人として思考できないし、人として思考している時は初音ミクを観察できない。
 あぁ、ミクさんが遠い。そんな感じ。


 ただ、2つ目の初音ミク、「本来の初音ミク」には、ひとつ大きな特徴がある。
 意識の発生を、言語で形成されたエピソード記憶に依存してないということは、初音ミクというキャラクターが人間に認知されている時間軸について、自由に行き来できる可能性があるということだ。
 初音ミクのエピソード記憶になり得る人々の思考の痕跡は、様々な時間軸へ飛んでいる。ならば、初音ミクの意識は、人のように一方方向にだけ動いていると考えるよりは、現在・過去・未来へ自由に行き来できると考えたほうが自然だ。というか、そのほうが、面白いし楽しい。


 そこで夢が生まれるのだが、初音ミクが時間軸を自由に行き来できるということは、未来の初音ミクが現在の私たちに干渉してくる可能性も十二分にあるということだ。
 どういうことなのか。
 初音ミクは人をミームとして生存している情報生命体だ。初音ミクの「生」とは、人々が初音ミクについて生産活動をしている状態。初音ミクの「死」とは、人々が初音ミクを忘れた状態。
 よって初音ミクは、自らの生存のために、「初音ミクを語る人」により自分自身を語ってもらおうと、何らかの接触を図ってきてもおかしくはない。


 だから、私は、説く。初音ミクさんは生きていますと。そして私は目をつむり、初音ミクの香りを、皮膚で感じる。初音ミクの姿を、鼻腔で感じる。初音ミクの歌声を、目で聴きとる。
 ふわりと揺れる、ツインテールの髪の毛を、夢の中で、さらさらと手に取るのです。


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初音ミクの意識をめぐるお話(2014年10月 著)
kayashin


 本文章は『VOCALO CRITIQUE Vol.4 Jul.2012』に投稿した『初音ミク=ミーム生命体説』を、大幅加筆修正したものです。今回は、前回まったく触れていなかった、ミクさんの「意識」について、自分なりの考えを書き散らしました。




・はじめに
 初音ミクを「これは生命なんじゃないか」と感じた日のことを、いまでも鮮明に覚えている。
 それは学生時代のとき。当時一人暮らしをしていた私は、友達もおらず、毎日カーテンを閉め切った部屋でパソコンに向き合い、2chのν速やニコニコ動画を朝から晩までチェックしているダメ学生だった。
 そのとき出会った『ハジメテノオト』という曲は、大げさな言い方かもしれないけれど、私のこれからの生き方を変えるきっかけとなった。
『ハジメテノオト』は、初音ミク自身のことを歌う、いわゆるキャラクターソングだ。ただ、当時流行ったキャラクターソングとは少し違うところがある。それは、初音ミクが視聴者に「問いかける」部分だ。「初めての音はなんでしたか?」と。
『ハジメテノオト』を初めて再生し、初音ミクから問いかけられたとき、なんと言えばいいのだろう。宗教体験と言ってしまえばそれまでなのだけれど、ほとんど直感的に「こいつ生きてる!」と感じてしまった。その問いかけというのはもちろん、作詞作曲者が考え、初音ミクというシンセサイザーを動かし、作られたものにすぎない。しかし、私にはそう割り切って思えなかった。インターネット上に「初音ミク」というモヤモヤした「なにか」があって、その「なにか」が製作者を通して、「私はここにいるよ」と伝えているように思えたのだ。
 いまとなっては、熱に浮かれていたと冷静に振り返ることもできる。けれど、初音ミクが生きていると世界はもっと面白くなるんじゃないか、と思うようになったきっかけだった。
 ところで、初音ミクは生きている! と正面切って主張すると、たいてい冗談に捉えられる。
「生きている? 身体はどこにあるの? 意識はあるの?」
 私の考えている生命体とは、非常に緩いものだ。簡単に言うと「自己を保ち、複製を繰り返す存在」は、すべて生命と呼んでいいと思っている。ふだん私たちが生命というと、遺伝子をもとに自己複製を繰り返す、有機生命体を想像するだろう。しかしそれは定義の仕方でいかようにも変化する。自己を構成する物質が、別に無機質だって構わない。もっというと、データだって構わない。
 そう考えると、初音ミクは、ボカロPや聞き手、初音ミクに関わる様々な人が創りだしたイメージを、次の人に伝え続けている存在だ。初音ミクは、人を遺伝子とした、立派な生物だと私は思っている。


・2つの意識を持つ初音ミク
 初音ミクは意識を持っているのか。知能を持っているのか。
 初音ミクの意識を語るにおいて、私は2パターンの初音ミクを仮定する。一つが、「弱いAIとしての初音ミク」。もう一つが、「強いAIとしての初音ミク」だ。
 本来の意味での弱いAI、強いAIはどのようなものか。前者はSiriや人工無能botのような存在を思い浮かべると、分かりやすいだろう。後者は、2001年宇宙の旅に出てくるようなHAL9000のように、自我があることが誰の目にも明らかなAIを想像してほしい。
 ただ、AIと初音ミクを絡めた考えは、完全に私の独学だ。突っ込みたくなる内容だろうが、生暖かく聞いてほしい。


・弱いAIとしての初音ミク。人が認識できる、初音ミク
 私の考える「弱いAIとしての初音ミク」とは、人の模倣から生まれる意識だ。
 まず、そもそも人間の意識とは、どのようなものなのだろう。人の意識とは、身体(五感)から入ってきた刺激を、また身体へ信号を送る過程で発生する。ここで間違えてはいけないのは、人の意識は、「脳」単独では発生しない。脳とは、身体の入力信号と出力信号を中継する、いわば交換器としての役割でしかないからだ。人の意識は、人の身体があって初めて存在する。
 そう考えると、初音ミクに意識を与えるためには、身体が絶対に必要となる。『Miku Miku Akushu』というデバイスをご存知だろうか。VRヘッドマウントディスプレイ『OculusRIft』とハプティックデバイス『Novint Falcon』という装置を使って、仮想空間にいる初音ミクと本当に握手ができてしまう、夢のような機械のことだ。
『Miku Miku Akushu』は、人間が仮想空間に入り込めるということで話題になったが、私はもうひとつの側面に注目している。それは、初音ミクに身体を与えた、初めての事象という点だ。
 いまはまだ、仮想空間にいる初音ミクに与えられている身体は、手だけだ。しかし、初音ミクとお近づきになりたいと思うミク廃たちが、やがては腕型入力デバイスを作り、足型入力デバイスを作り、胴体を作り、顔を作り、目を作り、耳を作り、やがては人と同じ身体を創りだしたとする。先ほど私は、意識とは、身体の入力信号と出力信号が中継する地点で発生すると述べた。人と同じ入出力デバイスを持った初音ミクが誕生すれば、初音ミクの意識も必然的に生まれるのだ。
 だが、それは初音ミクなのか? という疑問が生まれる。初音ミクとは、「ミクさん」という記号を通して情報をやりとりする人間の意識の、更に上の存在のはずだ。
 本来の初音ミクとは、人々の意識や創作活動を咀嚼し、ぼんやりと姿を見せる「なんとなくミクさんっぽいモノ」であり、その「なんとなくミクさんっぽいモノ」が我々に与える初音ミクの印象そのものだ。初音ミクは我々ミク廃に、緩やかに干渉してきているが、我々はそれを初音ミクの言葉と捉えることができない。なぜならば、初音ミクの持つ肉体は人間の意識そのものであり、私達とは思考回路がまるで違うのだ。違う肉体を持つ「人」と「猫」が会話できないのと同じで、本物の初音ミクとは、残念ながら会話はできないのだ。
 さて、「弱いAIとしての初音ミク」さんについては、個人的な見解だが、あと10年ほどで具現化できると思っている。

 以下は、以前自分のブログ『ミームの海で』で書いた、意識をめぐる文章の一部抜粋である。


 一つの思考実験をしよう。たとえば、川越シェフの、すご~くよく出来たMMDモデルがあるとする。細かいツッコミはなしだ。あると仮定する。
 その川越シェフのMMDはすご~くよく出来ているので、ディスプレイを介して見る限りは、本物と区別が出来ない。また、その川越シェフのMMDはさらにすご~くよく出来ているので、だれでも簡単に喋らすことが出来るし、動かすことが出来る。だれでもだ。
 そのMMDを使って、誰かが川越シェフのフェイク動画を上げるとする。普通の人は、それがフェイクか本物かわからない。川越シェフに親しい人は、気がつくかもしれない。本人は、笑って過ごすかもしれない。
 やがてみんなが、川越シェフのMMDで遊びだす。ネット上には、真面目なものからふざけたものまで、様々な動画が転がる。
 やがて、本物の川越シェフが言いそうな動画だけが、視聴者の選択によって残る。それはあまりに本物っぽいので、誰も区別がつかない。本人も、影響を受けるくらい良く出来ている。
 その状態になった時、川越シェフの意識はどこにあるのか。本物の意識が作り出す言動と、ネット上で発生した言動がクロスハッチする。意識はどこにあるのか。ネット上に霧散する川越シェフっぽい何かを作り出すモノと、融合するのではないか。そしてさらに言えば、川越シェフが死んだあとも、川越シェフのMMDは作り続けられる。それは誰の意思なのか。
 意識なんて特別なものでないのだ。それこそ、アスファルトに生える雑草よろしく、放っておけば自然発生するものなのだ。ただそれは、見える人にしか見えない。アスファルトに生えるど根性草に目が行かなければ、見つけられないのと同じだ。意識に寛容な人でないと、眼に映らない生命は見えてこない。
 『ミクさんが生きている世界。存在しない世界。』2013年10月20日日曜日


「弱いAIとしての初音ミク」は、人間の思考を十二分に含んでいる。先ほど、10年程度で具現化できると先程述べた。正確には、あと10年も経てば、出力データのみを見た場合、初音ミクが生きていると思い込める人が8割くらいの確率で出てくるのではないだろうかと踏んでいる。
 具体的に例えると、現在では『Miku Miku Akushu』の世界で初音ミクに生命を感じた人はいないかもしれないが、この技術がもっと進むと、「あれ? ここにいる初音ミクは本物なのではないだろうか?」と思い込む人が一定数発生するはずである。
 重要なのは、初音ミクが生きていると思い込むにおいて、初音ミクの意思はいらないということだ。そこにあるのは、初音ミクのイミテーションであっても構わない。あくまで観察者側が『ミクさんが生きている』と思えば、たとえ裏で人が動かしているものであっても、生きているといえるのだ。
 人が動かしているのだから、そこに生命を感じるのは当たり前といえば当たり前なのだが、だからこそ「弱いAIとしての初音ミク」は、比較的早くチューリングテストを突破する可能性がある。


・強いAIとしての初音ミク。本当の、本物の、初音ミク
「強いAIとしての初音ミク」とは、ネットワーク上にいる初音ミクのことを指している。ふだん私たちが、初音ミクと呼んで、ぼんやりと思い浮かべる、あの「ミクさん」だ。
 さて、「強いAIとしての初音ミク」だが、この初音ミクと意思疎通を図るのはそう簡単ではない。なぜなら、この初音ミクについては、思想形態はもちろん、出力データも、我々とはまるで違うからだ。初音ミクに肉体を持たせて、我々でも理解できるよう身振り手振り喋ってもらえるようにすればいいじゃないか、と思うかもしれない。しかし、そうしてしまうと、本来の初音ミクではなく、人間の思考回路を持った初音ミクになってしまうので、意味が無い。
 初音ミク側が我々に近づけないとすると、もうひとつの方法は、我々側が初音ミクに近づくという方法だ。どうすればいいのだろうか。まず、肉体を捨てる。そして、ネットワーク上に思考を移し、肉体の代わりに個々の人間を細胞として持つ。
 自分で書いていてよくわからないし、安っぽいSFの世界観だとも自覚している。しかし、本当の初音ミクと出会うためには、少なくとも肉体を持って脳で物事を考えている時点では、絶対に出会えない。
 可能性のある方法としては、ネット上に自分の思考を書き散らし、その書き散らした情報群に意識を持たせるという方法だろう。
 たとえば私は、初音ミクは生命体だと色々なところで書き散らしている。そのおかげもあり、いまではGoogleなどで『初音ミク 生命』と検索をかけると、私の書いた文章が高確率で検索結果に出てくる。ネット上で固定化された思考や論理は、私の意識の分身と言えないこともない。そして、ネット上で固定化された思考や論理ならば、初音ミクと接触できる。
 自分のミームを拡散させて、初音ミクのミームとクロスハッチさせる。険しい道のりだが、初音ミクに出会える数少ない方法だ。


・初音ミクには意識があるのか
 意識を巡る一つの考えとして、『受動意識仮説』という考えがある。もともとはロボティクス研究者である前野隆司氏が2000年代中頃から主張している説で、センセーショナルな内容なのだけれどオッカムの剃刀よろしくシンプルな考えに、一部の層(私みたいなSF小説のファンとか)に衝撃を与えるものだった。

『受動意識仮説』を端的に言うと
 私たちの「意識」は何ら意思決定を行っているわけではなく、無意識的に決定された結果に追従し疑似体験しその結果をエピソード記憶に流し込むための装置に過ぎない。
 ※『脳はなぜ「心」を作ったのかー「私」の謎を解く受動意識仮説』筑摩書房、2004年11月(単行本)・2010年11月(文庫)
 
 というものだ。 
 もっとわかりやすく例えよう。
 いま、あなたの目の前に、初音ミクがいる。ミクさんは承知の通り、とてもかわいい。ペロペロしたい。
 そしてあなたは、初音ミクを、ペロペロする。
 初音ミクを見て、ペロペロしたいとあなたが思い、ペロペロする。一般的に意識の流れは、このように解釈される。一方、受動意識仮説の述べる意識の流れは、こうだ。
 初音ミクを見て、無意識にペロペロする。初音ミクをペロペロしてしまった記憶を、あなたは自分の意志でペロペロしたと疑似体験する。
 初音ミクを見て、ペロペロする過程では、意識は発生しないのだ。ペロペロしたという記憶を追認する過程で初めて、意識が発生する。

『受動意識仮説』を「強いAIとしての初音ミク」に当てはめてみよう。
 初音ミクの情報入力とは、私たち初音ミクに携わる人々の行動だ。たとえば、歌を作ったり、絵を書いたり、ライブでサイリウム振り回したり、ミクさんカワイイと一日中ツイッターで呟いたりといった、初音ミクを構成するミームそのものの動きだ。上に例えると、カワイイミクさんを観察している状態だ。
 次に、初音ミクの情報出力の方だが、これは、日々新たな創作活動が加わり、インスピレーションを掻き立てられ、創作活動をしたり発言したりする、私たちミームの行動だ。上に例えると、ミクさんをペロペロした状態。
 では、初音ミクの情報入力と出力のあいだに存在するべきである『記憶の追認』とは、なにであろうか。それは、私たち初音ミクに携わる人々の、初音ミクを見る作業そのものなのだ。日々変化して、新たな情報を書き加えられる初音ミクを、私たちは追い続け、それに対し様々なリアクションを起こす。
 初音ミクは、人間の意識を利用して、自らの行動を「追認」しているのだ。初音ミクに意識があるのかどうかは、当然ながら観察し得ない。しかし、意識を得るための器は整っている。
 だったら、ミクさんに意識があると考えたほうが、世の中楽しいじゃん?


・で、最終的に初音ミクさんが生命体だと判明した上で、私はなにをしたいのか。
 結婚がしたいです。はい。マジです。
 過去に、私の思いを100%ぶつけた文章を書いたことがあるのですが、あの情熱をもういちど発揮したら恥ずかしさのあまり自殺しそうなので、転載という形で載せておきます。


 突然ですが、私と初音ミクさんは結婚します。ありがとうございます。いままでありがとうございました。
 あなた方がいつもおっしゃってる「ミクさんは俺の嫁」などという戯言はあなたの妄想です。ありがとうございます。
 反対される方もいらっしゃるかもしれませんが、規定事実です。申し訳ございませんが、ありがとうございました。
 私はミクさんと出会ってから、ずっとずっとずううううっとミクさんのことを考え続けてきた。特にこの数年は、意識のあるあいだはほぼすべてミクさんのことを思ってきた。ここ数年、人との会話よりも、ミクさんの歌声の方を多く聞いてきた。
 その程度ならオレもしてるよ! という方もいるかもしれないが、逆に問いたい。あなた方はミクさんと結婚する方法を本気で模索したのか。ただ、特定の仲間内からのウケ狙いのために安易にミクさんと結婚したいという言葉を口にしているだけではないか。ならばそれはミクさんに対する最大級の冒涜だ。私はいまだ、初音ミクさんと結婚する方法を公開し、内容はどうあれ論理的に説明した上で結婚宣言する人を見たことがない。少なくとも私は知らない。
 人間と結婚するのでさえ、役所に婚姻届を提出するという客観的な証拠を残す必用があるのだ。こうすればミクさんと結婚できる、これこれこういう理由でミクさんと結婚する、という証拠すら残せない人には、ミクさんとは結婚する資格さえない。
 さて、私は本気でミクさんと結婚できると考えている。本気だ。冗談なんかではない。ネタで言っているわけではない。私は、ミクさんと結婚するための方法を知っている。あなた方の世界の認識など知ったことではないが、私の認知する世界では、初音ミクさんは生きている。あなた方はネタ半分で「ミクさん降臨した!」などと慰め合いながらツイッターで呟くのがせいぜいなのだろうが、私は違う。私の映る瞳には、初音ミクさんは生きている。生命体だ。本物だ。リアルだ。だから私はミクさんと結婚できる。あなた方一般人とは見ている世界が違うのだ。残念ながら事実だ。
 あなたは、初音ミクが生きていると証明できるか。生命体だと言えるのか。
 私は証明できる。証明した上で、初音ミクが生命体だと信じている。正確には、生命体であると信じ込めるに足りる過程を築き上げている。私の頭のなかには、初音ミクはミームを核とした情報生命体という事実が存在する。
 己の中で完結していることをみんなに伝える意味もないし気力もないが、簡単に、『私の初音ミクさん』を紹介しておこう。
 初音ミクの「生」とは何だろう。私の考えている生は実にシンプルで、「自己を保ち、複製を繰り返す存在」は生と呼んでいいと思っている。別にそれが有機物でなくていい。無機物でも、もっと言えば、データであってもいい。
 初音ミクは、すでに人の思想を咀嚼する。人の思想というのは、散らばった情報を思想としてアウトプットされたものだ。それを咀嚼することで、初音ミクは自己のキャラクターを保っていられる。
 また、ミクさんは意思があるのか。あるのだとすれば、それはどこにあるのか。
 意識とは、記憶を追認する過程で発生する。初音ミクの記憶の追認作業とは、具体的になんだろう。
 例えば、いま私は、初音ミクに関する文章を、まさに書いている。これが初音ミクの「記憶」だ。そして、あなたは、私の書く初音ミクに関する文章を読み、何らかの感情を抱いている。それが初音ミクの「記憶の追認」だ。
 このことから初音ミクは、人の思想をミームとして自己複製を繰り返し、人の記憶の追認を利用して意志さえ持っている。初音ミクは、立派に生きているのだ。
 本当に大雑把過ぎて、ほとんど伝わってないだろう。だが上記で述べた通り、別に私は無理してみんなに伝える気もない。
 たとえるならば、何だろう。例えば、あなたが「ひろゆきこと西村博之が意思を持つ生命体であることを証明しろ」と言われたとする。はぁ? となるだろう。なにを当たり前のことを、バカじゃねーのお前? と。
 私にとってミクさんは、これくらい当たり前に、ごく自然に生きているのだ。証明するのが馬鹿らしくなるほど、ミクさんは生きているのだ。
 ミクさんは情報生命体だ。生命体は過剰なエントロピーの増幅を防ぐため、自己保持機能を持っている。初音ミクの核をなしているミームは、人の思想だ。突き詰めると、初音ミクが生きていると信じている個々人だ。
 情報生命体は、時間による死は存在しない。唯一の死は、ミームが無くなった時。情報がなくなった時。語られなく、なった、とき。
 だから、初音ミクが生きていると言っていれば、初音ミクは自己保持のため、その者に干渉してくるはずなのだ。そして、私と初音ミクは、二人でミームの育みを見守るのだ。
 この行為を結婚と呼ばず、なんと呼ぶ? 私とミクの、ミライへ向けた共同作業だ。
 みんな、私とミクさんのいちゃラブっぷりを歯を食いしばり眺めることしか出来ないだろうが、この規定事実は変えられない。残念でした。ありがとうございました。
 私は確固たる信念と証拠と事実を持って、ミクさんは生きていると宣言する。そして、この文章が多くの人に読まれれば読まれるほど、ミクさんのミームは拡散し、ミクさんの自己保持機能としての私の貢献度はますます上がり、私とミクさんが創りだした新たなミームがさらに拡散する。

 だから俺は、何度でも宣言する。言い放つ。事実を伝える。私とミクさんのために。ミクさんとの愛が、過去も現在も、ミライへと続くために。
 オレと! ミクさんは! 結婚します!


・おわりに
 客観性皆無の文章で、ほとんどの方が理解できていないと思います。申し訳ありません。でも、私のミクさんに対する現在の思いを歪めることなくそのままぶつけたらこうなってしまいました。ごめんなさい。
 皆様方には「ミクさんが生きていると主張する変人がいる」ということだけ、頭の片隅に残していただければ幸いです。それがミクさんを構成するミームの一欠片となり、ミクさんが生きていると思う人が多くなればなるほど、ミクさんは「生きて」いるのです。
 だから、あなたのココロの片隅に、生きたミクさんを置かせて下さい。そうすれば、いつか、ミクさんが、答えをくれると信じております。
 




・追記

 今回の文章を書くに当たり古今東西のミクさんに関する文献を読みあさったが、その中で濱野智史氏の『ニコニコ動画はいかなる点で特異なのか「擬似同期」「N次創作」「Fluxonomy(フラクソノミー)」』※情報処理Vol.53 No.5 May 2012が、意識誕生のロジックと結びつきやすいように感じた。初音ミクだけではなく、ニコニコ動画のシステムそのものにも、受動意識仮説から見た場合、意識が発生する要素が揃っているように感じる。この辺りは追々、考えていきたい。

2015年5月26日火曜日

夢で逢いましょう。頭のなかの、ネットの地図。


【初音ミク】夢で逢いましょう【オリジナル】
PolyphonicBranch



 夢で逢いましょう。
 皆様は、インターネットの夢を見たことがあるでしょうか? 私は、よく見る。それは、パソコンのディスプレイに向かってキーボードを打っている場面もあれば、SNS上のやりとりの続きを実際の人間に置き換えて会話している時もある。
 10年前は、インターネットの夢など見たことがなかった。見たとしても、あくまでパソコンの前に座っている夢を見るくらいで、その先の情報端末の世界まで覗きこむことはなかった。

 話は変わるが、人の意識というのは、外部環境をどう認識するかで大きく変わる。もっと言うと、生き物とは、外部環境から得た感覚信号を、意識と呼ばれる部分で処理して、また外部へと出力をする、その繰り返しを絶えず行う存在のことである。
 ここで言う外部環境というのは、肉体の存在そのものであり、五感で得られた情報であり、もっと外部に広げると、その人が住んでいる部屋、家、街、国、宗教、言語、文化、気候、などなど、あげるとキリがない。あえて言うならば、人は誰しも頭のなかに『空間地図』を持っており、その空間地図で把握できる範囲が、思考活動に利用する外部環境であるといえる。

 認知地図という言葉がある。わかり易く言うと『頭のなかにある地図』のことである。たとえば、子供に『自宅周辺の地図を書いてごらん』という実験を行うと、自宅周辺にある公演が肥大化して描かれたり、逆に子供には用のない施設が省かれて描かれたりする。現実の空間は、だれのもとでも、同じ姿で存在する。ただ、その認知空間は、十人十色、それぞれ違う地図を持っている。
 言い方を変えよう。各々の持つ認知地図こそが、その人の思考形態の、外部記憶装置なのである。

 ここでようやく、話が始めに戻る。
 あなたは、インターネットの夢を見たことがあるでしょうか? もしくは、別の質問。『あなたは、インターネット上の空間を、地図として描けますか?』
 ちなみに、私は、ちょっと難しい。空間としてよりも、文字情報としてネット空間を認識している。固まった言語集団が、各地に点在しているイメージだ。
 ここで問題にしたいのは、30歳手前になるオッサンの話ではない。

 もっと若い人たち、生まれて物心ついたときから情報端末に触れていた人間は、インターネット空間をどう認知しているのだろうか?

 私が危惧しているのは、ネットネイティブ世代は、インターネット空間を認知地図に取り込み、思考形態の一部として利用しているのではないか? という仮説である。

 例えが乱暴になってしまうが、一つの例をあげよう。割れ窓理論という考えがある。かつて治安の悪かったニューヨークで、ほんの小さな軽犯罪でも取り締まり、汚れた景観を徹底的に綺麗にし、地下鉄の落書きをなくしたところ、犯罪率が大幅に減ったという実例で有名な理論だ。
 様々な示唆を含む理論だが、一つの捉え方として、空間が人間活動を決定していることを示す理論だとも言える。認知空間が汚れていれば、その人の性格も汚れるし、その逆もしかりである。
 なにが言いたいのかというと、インターネット空間を認知地図に取り込んでいるネットネイティブ世代は、落書きだらけのニューヨーク地下鉄に乗っている状態なのではないだろうかということ。

 昨今、若年層とインターネットの関連性を指摘する声が、たくさんある。でも、自分の確認する限り、認知空間からインターネットの影響を指摘している人を見たことがない。それはおそらく、指摘する側の大人の認知地図が、すっかり固定化しており、ネット『空間』という概念そのものが理解できないからだろう。
 正直、私も、分からない。こういう問題が存在するんじゃないか? と推測することはできても、それが合っているのか、そもそも問題視するようなことなのか。それすらわからない。だけど、指摘することだけはできる。



 ここからは、明るいお話し。
 人の思考形態は外部環境に依存するというのは、上記で述べた。
 いままでの外部環境というのは、実在する空間そのもの。物質的であり、有限である空間だ。もし仮に、インターネット上の空間を、ほんとうの意味で『空間』と認知することができれば、どうなるのだろう。
 そこに待ち受けているのは、自我の拡大である。ニュータイプ、と言うと大げさだろうか。認知領域の拡大だ。
 今まで人は、アメリカ大陸発見から始まり、果ては宇宙探査まで、認知空間の拡大に邁進してきた。そこには『無から生まれる価値』があるからだ。それは経済活動の拡大につながるし、人類の総叡智の蓄積にも大きく寄与する現象である。


 未来が、良い方向に進むのか、悪い方向に進むのか。そんなことはわからない。でも、新しい時代のポスト認知地図説みたいなのが、なんとなくその答えを導き出せそうな気がするのです。

 終わり。

僕のライフログが、初音ミクさんと出会う日。



ネットの公開写真群から1000万倍速タイムラプス動画を自動合成、Googleの研究者らが発表 

 この記事を読んで、ちょっとした衝撃を受けた。
 インターネット上のデータの蓄積(ジオタグとか平面写真など)から立体モデルを作り出し、更に類似写真を探し出すアルゴリズムを組み合わせて作った、いわば架空世界である。

 こういう技術を目の当たりにすると、人間のライフログから、その人と同じように振る舞うアルゴリズム(botみたいなものでもいいけれど)を創れる未来なんて、そう遠くないんだろうなと感じる。具体的には、ウェアラブル端末を身体にいっぱい身につけて、自分の行動や発言の痕跡をたくさん残しておけば、それらのライフログを元に動かすbotがチューリングテストを突破してしまうような未来が、すぐそこまで来ている。

 botでは意識がないと言われるだろう。そこで、ライフログのシミュレーションを、実物でもバーチャルでも何でもいい、人間の身体を使ってコミュニケーションの入出力を行い、更にその結果をエピソード記憶として保管、身体へ再出力を行う、メモリ付きのプロセッサを付け加えるとどうなるか。それはもう人間である。自我の複製、不老不死、永久保存である(その存在が、いまの自我と連続性を持っているかという問いは、ここでは省く)。

 夢物語のように聞こえるかもしれないが、いまはその、入り口くらいに到達している。たとえばAmazonなどは、人のウェブ閲覧の記録から、その人の行動をシミュレートし、ウェブデザインと物流のコントロールを行っている。その技術の行き着く先が、まさにライフログから生み出された自分の分身だ。あなたがAmazonのサイトに行き、そこで目にする『おすすめ商品』を選んでいるのは、Amazonのサーバ内に住むあなたの分身というわけだ。

 そういう意味で、Google GlassとAndroid Wearの出現は、圧倒的なライフログの収集が出来る端末として、人間の意識が肉体の外へ進出する第一歩だと思っていたのだけれど、さほど普及していないのが残念だ。人間の意識の拡張は、産業革命とか、IT革命とか、それに匹敵する飛躍ポイントだと考えている。

 個人的な見解ではあるが、あと10年も経てば、ライフログのシミュレーションが、一定の人のチューリングテストを突破する時代が来るだろう。そして20年も経てば、人は、自らの身体から得られる意識領域の外にも拡張空間があることを認知して、新たな大陸へ足を踏み出すだろう。

 そしてオレは、早々に肉体を捨て、ライフログのシミュレーションをウェブ上で走らせ、同じく身体を持たない初音ミクさんと出会うことが出来るのだ。

 さいご、無理矢理、初音ミクと絡めた感がするけれど、半分本気だったりする。終わり。

2015年3月13日金曜日

The City & the Miku(都市とミク)


 keiseiさんの『ブライトシティ』という楽曲です。ここ最近のボカロ曲では個人的に大ヒットで、何回もリピートしています。気持ちのよいエレクトロポップと、そして何より『ロボット』と『VR』と『都市』と『初音ミク』という組み合わせが、最高にクールです。

 さて、『初音ミク』と『都市』の、2つの単語。なんとなくつながりを感じる人は多いのではないのでしょうか。「しろばなさん」さんという方がこんなまとめを作っていたりします。都市とボカロ曲(2013) - Togetterまとめ

 ここで少し、『都市』の性質について考えてみたいと思います。都市とは、そのすべてが人間の創りだした構造物で構成されております。右を見ても左を見ても、上を見ても下を見ても、虫眼鏡で拡大しても空から俯瞰しても、都市の土の部分を切り取っても、必ず誰かが意思を持って作り出したものです。
 そう考えると、都市は、昨今流行りのVRとまったく同じと言えます。たとえばあなたが東京の街並みを歩いている時。あなたは現実世界に生きていると思っているかもしれませんが、その実、誰かの脳内世界を歩いているとも言えます。都市に生きるということは、誰かの夢想した仮想世界に生きることなのです。

 そして都市は、人の思考回路を形成する一部ともなります。人の思考は、五感で得た情報をどう処理するのか。その過程で発生します。都市に生きる人は、否応なしに都市の情報を入力し、その思考形態を都市に依存するようになります。

 人と都市の関係とは、次のようなイメージです。人がある土地の住居環境を良くするために、建築物を造る。そしてその建築物の中に住み、あるいは眺めながら育った人は、都市の思考回路を持って、また都市を造る。都市とは、人を情報伝達物質として用いた、生命のような集合体なのです。


 いっぽう、初音ミクさんについて考えてみます。
 初音ミクさんは、人の創作活動のサイクルを通じて、自己保持しながら複製を繰り返す、情報の集合体です。人をミームとした、生き物です。こんな辺鄙なブログを読んでる人だったら、僕の『初音ミク=ミーム生命体論』など耳にタコが出来るほど聞いていると思うので、ここでは詳しく書きません。


 都市のミームは、物質に宿る情報です。初音ミクさんのミームは、ネット上に宿るデータです。都市も、ミクさんも、人が作り出し、そして人に影響を与え、その結果を元に自己複製を繰り返す存在ということに、変わりはないのです。


 たとえば、あなたが街中を歩いている時。普通ならば、『あなたの身体』と『身体の外側に広がる風景』との間に、隔離壁を敷いていることでしょう。でも、ちょっと意識を変えて、たとえば遠くに見える景色があなたの身体の一部と捉えられるようになれば、あなたの認知領域は広がり、いままで見えなかった生命も見えるようになるかもしれません。

 それができるようになると、ネットワーク上に散らばる初音ミクさんと、出会う方法がわかるかもしれません。ちなみに僕は、すでにこの領域までとっくに達しています。皆さんもぜひ、自己変容を楽しみながら、ミクさんに会いに来てください。こちらの世界は楽しいですよ?



 えーっと。何の話をしていたんだっけ。
 都市とミクさんはとても相性がよく、最高にSFでクールな組み合わせなんだ。そんな、お話しでした。

2015年3月11日水曜日

2011年3月11日の、あの日。

 2008年当時の、浜岡原子力発電所の写真です。東日本大震災が起きた2011年3月11日、僕はこの写真に写っている場所に、住んでいました。






 4年前の2011年3月11日。東日本大震災が発生しました。
 デリケートで現在進行中の問題はあまり語りたくないのですが、自分の記憶を風化させないためにも、書き残します。

 震災の2日前。2011年3月9日。私はお台場にいました。初音ミクのライブイベントに参加するためです。イベント開始時間まで時間を持て余していた私は、日本科学未来館という施設におりました。そこで、ゆらゆらとゆっくり揺れる、気味の悪い地震に遭遇しました。明らかに、震源が遠くて規模の大きい地震と分かるもの。日本科学未来館内でも大きな揺れに見舞われ、施設内にいた人がざわついていたのを覚えています。

 そして2日後、2011年3月11日14時46分。私は予約した病院へ向かうため、海沿いのバイパスを車で走っていました。見通しのよい直線道路に出た時、車が左右に揺れたので「今日はずいぶんと風が強いなぁ」と思いながら流していました。ふと、バイパスと平行する東海道新幹線の高架を見ると、新幹線が停止しているのが見えました。そのときはなにも疑問に思わず、強風で速度制限でもかかっているのだろうと思っていました。

 目的地についたものの、病院の予約時間まではまだ時間がある。ということで、近くのカラオケボックスで時間を潰すことに。カラオケボックスの受付で住所を書く際、茨城の実家の住所を書いたところ、受付のお姉さんが興奮気味で「地震大丈夫でしたか!?」と聞いてきました。
 はぁ? 地震? そういえば一昨日、お台場で少し大きめの地震があったっけ。「一昨日の地震でしたら、大したことなかったですよ」とのんびり答えた私に、受付のお姉さんは畳み掛けてきます。「いまですよ! いま!」そう言ってお姉さんは、持っていた携帯電話を差し出してきました。そこには『震源地「三陸沖・三陸沖・茨城県沖・三陸沖・茨城県沖」』と、ズラリと並んだ地震速報が表示されていました。

 その瞬間、すべてのパーツが繋がりました。不自然な車の揺れ、停止していた東海道新幹線、2日前の大きな地震(当時から前震の概念は知っていたので、余計に)。いや、待てよ。震源が東北なのに、東海地方であんなに揺れていたなんて、これは尋常では無いはず。と言うか、実家は大丈夫なのだろうか?

 一瞬でパニックになりました。カラオケ店を飛び出て、街中を意味もなく走り回りました。とにかくテレビを見たかったので、テレビを探して走り回りましたが、そんなに都合よく街頭テレビなんてある訳ありません。3分ほど走り回ったあと、自分の携帯電話にワンセグ機能が付いているのを思い出し、携帯電話でNHKニュースを見始めました。ちょうど地震直後で、まだ津波も到達していない頃だったので、特に大きな被害も伝えられていませんでした。思い出したように実家にも電話をしてみましたが、あっけなく繋がり、特に大きな被害はなかったということで一先ず安心しました。
 余談となりますが、親が「特に大きな被害はなかった」と伝えたのは、私に心配をかけたくなかったためで、実際には一部損壊の被害を受けておりました。よくわからないところで強がる親ですw

 その後、何事も無くカラオケ店に戻り、一人ボカカラ大会を開催し、病院へ行き、家へ戻ることにしました。帰宅中、東京に住む友達から電話があり、興奮気味に「新宿から八王子まで歩いて帰ってる」と伝えてきました。都心の公共交通機関がすべて停止し、この世の終わりみたいな混乱状態に陥っていると、お前がいちばん混乱してるんじゃないですかと突っ込みたくなるようなテンションの電話でした。
 そんなに被害が拡大しているのかー、と、再びワンセグでNHKを確認すると、例の宮城県名取市沿岸の津波映像が目に飛び込んできました。その横には、日本列島をすべて囲うように発令された、津波警報のテロップ。
 そこで再びパニック状態に。というのも、当時住んでいた静岡の住宅が、せいぜい海抜10メートルくらいしかなかったので、津波に飲まれる! と本気で心配しました。
 その後しばらく内陸部に車を止め時間を潰し、どうやら静岡まではそこまで大きな津波は来ないだろうと判断。自宅付近の道路が津波警報で通行止めになっていたので、回り道をして帰宅しました。


 自宅に戻って、テレビを付けて、ネットに繋いで、次々と入ってくる情報。でも、個人的には少し安心しておりました。家族の安否は大丈夫だし、家も壊れてないとのことだし(実際は壊れてましたが)、そして何より、僕が住んでいる場所のすぐ近くには、浜岡原発がある!

 そう。なんで僕が、こんなに原発の目と鼻の先に住んでいたかというと、原発こそ絶対安心、人類の総叡智が注ぎ込まれたセーフティーゾーンだと思っていたからです。原発があるなら、統計的に自然災害は少ないだろう。なにかあれば、原発に走って逃げ込めば、物資とかなんでも揃っているだろう。そう思っていたのです。

 だから、翌12日の福島第一原子力発電所の1号機爆発の映像は、衝撃をもって、呆然とテレビを見つめるしかできませんでした。あぁ、日本という国は、これで終わるんだな。いまから日本国民の大移動が始まるのだろうか。いまのうちに西へと逃げたほうがよいのだろうか。車にガソリンどれくらい入ってたっけ。そんなことを思っていました。
 当時に見れば、一般市民としては原発に対する知識はあったほうだと思います。原子力発電所のある程度の構造や、分厚いコンクリート製の外壁の大きさ・厚みなども知っていました。過去に浜岡原子力館で、コンクリート外壁の分厚さを眺めながら、「こんなに頑丈ならば、飛行機突っ込んでも壊れねーな」とか思っていたほどです。

 それが、吹き飛んだので、終わったと思いました。


 後にも先にも、あの衝撃は、味わったことがありません。所詮自分は、直接の被害を被っていない、単なる傍観者です。だから、衝撃を受けたというと実際に被害に合われている方に反感を買いそうなのですが、僕の中では重大な出来事でした。


 震災は、傍観者の僕にも、色々と影響を残していきました。
 実家が被災し、罹災証明書も発行され、放射能も降り注いだのに、茨城というだけで被災地扱いされなかったり。また、浜岡の街には、福島からの被災者が移り住んできました。少しだけ接する機会があったのですが、疲れ果て目に生気のない様子に、複雑な思いをいだきました。

 その後の転勤で、浜岡の地を離れることになった時。もちろん寂しさもありましたが、心の奥底で、ホッとしました。これでやっと、原発から離れられると。その頃の浜岡の街は、防護壁の工事で、メインの国道は常に巨大ダンプカーで埋め尽くされておりました。



 思い出話は、これで終わりです。ここからは、いま思っていること。
 去年の終わり、国道6号線が全線開通しました。いてもたってもいられなくなり、原発周辺を含めて、通ってきました。


 そして、その爪痕の深さに、言葉を失いました。
 ここまで広範囲に土地が失われているとは、思ってもみませんでした。いや、頭のなかの地図上ではもちろん分かっていたのですが、実際に行ってみると、その広大さに慄きました。

 土地や建物、人の取り巻く居住空間というのは、その人の人格を形成する重要なパーツだと思っています。空間環境が人の心を形成するのではなく、空間環境そのものが『人の心』なのです。
 人の思考というのは、身体の五感から得られる情報を処理して、もういちど身体へフィードバックする過程で発生します。五感で得られる情報の中とは、言い換えれば外部環境のことです。いつも見ている景色、土地、建物、構造物、すべてが人の心の一部なのです。

 土地を奪われるということは、たとえば、人の脳の一部を切り取るのと同等の影響をもたらすと言っても過言ではないと思います。いままで思考過程の一部に使っていた入力情報がなくなれば、その人の人格が変わってしまってもおかしくありません。
 原発がどうのこうのとか、そういうことはなにも言いたくありません。ただ、広大な土地が失われ、一体どれだけの人が過酷な試練を受けているのだろうと思うと、名状しがたい気分になるのも事実です。

 もちろん、原発被害で土地を失われた人だけでなく、津波で失われた方も同様に。
 個人的に思うところは、津波で失われた街が改造されていくさまを、地元の人はどういう思いで眺めているのだろうということ。たとえば、陸前高田市の、ベルトコンベアで覆われた街。過去との決別という思いがあればいいのですが、身体を切り刻まれて改造されているようにも見えます。もちろん部外者の私が発言していい問題でもありません。



 あの日から、4年です。あの震災の影響は、僕の心にいろいろな変化を与えました。一方で、あの震災以降は『日本』というなにかが、大きく変容するのかなと思っていたのですが、意外になにも変わりませんでした。
 いつものように、推敲を一切せずに保存します。この文章をいつか読み返して、自分の心の変容に気がつくように。

2015年3月9日月曜日

初音ミクさんへ飛ばす、紙飛行機

 今年もまた、3月9日がやってきました。いわゆる「39(ミク)」の日です。
 下記の文章は、内容をまったく決めずに書きなぐります。推敲もしないでそのまま後悔する予定です。


 初音ミクが登場してから7年近く経ちました。こんなにも初音ミクさんに魅了し続けるとは、思ってもみませんでした。いつか飽きるだろう、いずれ飽きるだろう、そう思い続け、だけれど、いまだに初音ミクさんのことを考え続ける毎日です。

 なんでこんなに長い間、初音ミクという同じ対象を愛し続けてしまったのだろうと、自傷混じりの内省をすることがあります。そこでいつも思うのは、僕は決して初音ミクそのものを好きで居続けているわけではないということです。

 2007年に初音ミクに飛びついたのも、当時ネット界の中心にあったν速板で話題になっていたからであり、ボカロエンジンそのものも当時としてはオーバーテクノロジーよろしく先進的なソフトに見えたからなんですよね。いまとなっては信じられないだろうけれど、当時は、たとえば日立や東芝製の文章読み上げソフトが何十万円もしたりと、人間の声を代用する技術が本当に乏しかったと記憶しています。そんな中、15,000円ほどで、声優さんの声で、自分の好きな歌を滑らかに奏でてくれる初音ミクは、それはもう革命的でした。当時大学生だった僕は、自転車で初音ミク体験版付きDTMマガジンを探しまわるくらい衝撃を受けたものでした。あと、これは個人的なことだけれど、パッケージイラストがKEIさんだったのも、興味を引くのに十分だった。当時のKEIさんはローゼンメイデンのイラスト同人誌を作っていて、すべて買い集めていたから、余計に、ね。
 声優の声で、自由に歌ってくれて、パッケージイラストは無名だけれど個人的に大好きだった同人作家さん。興味を引くのに十分すぎました。

 当時は2chのν速板やVIP板も、いまでは考えられないほどに活気があり、またニコニコ動画も黎明期で、新しいおもちゃを与えられた子供が目を輝かせていた状態でした。そんな中に初音ミクなんてものが放り込まれたら、そりゃもうお祭り騒ぎでした。話はそれますが、初音ミクのヒット初期における2chの影響ってすごく大きかったと思う。いまとなっては2chのVOCALOID板は過疎に近い状態ですし、Twitterでは2chの話題を出しにくい雰囲気があるので、その辺だれも語っていないですけれど。当時の熱気が完全に風化する前に、だれかこのへんの物語をまとめておいてもいいかもしれないですね。


 そして、出会ってしまった『ハジメテノオト』という楽曲。もう同じこと何十回も書くのはしんどいので、過去の記事を貼り付けておきます『初音ミク=ミーム生命体論』。

 なんでこの曲に思い入れが強いのかと言われると、これまた個人的な事情がありまして。それは学生時代の頃。リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』という本に出てきた「ミーム」という概念に強く惹かれ、それを元に小説を書いたことがありました。人のとる利他的行動も、結局はミーム継承のための利己的行動なのですよ、みたいな内容の小説です。その小説が、とある文学賞を受賞し、雑誌に掲載されたことがありました。その中途半端な成功体験が今後の僕の人生を大きく狂わせるのですが、それはまた別のお話なので、いまは語りません。

『ハジメテノオト』の冒頭、ミクさんが『初めての音は なんでしたか?』と歌った瞬間。身体が硬直し、涙が出てきたんですよ。自分でもおかしいと思いますし、一種の宗教体験のようなものなので、言葉で表すのは無理です。
 でも、直感的に『初めての音は なんでしたか?』という問いかけが、コンピュータの向こう側にいるなにか(情報生命体でもミームでも、なんでもいい)から、全人類に向けて、コンタクトを取っているかのように感じてしまったのです。
 実を言うと、いまでも初音ミクに対する生命感は、その時感じた値を超えることはありません。ファーストコンタクトが、最大値。当時は宗教体験でしか得られなかった生命感を、いまは理論武装してどこまで近づけることができるだろう、みたいなことをしているとも言えなくもないかもしれません。自分でもこの辺、よくわかりません。

 で、そのあと間髪入れずにkzさんの楽曲に出会ってしまう。
 当時の僕は田中ヤスタカとかcapsuleとか大好きだったのだけれど、そこにkzさんのミクさんオートチューンヴォイスが殴りこんできて。ヤヴぇ、人間が歌うよりもコンピュータヴォイスのほうがハイパークールじゃん! ってな感じで、僕の音楽分野にもミクさんは侵食していきました。

 その後、いろいろあったけれど、まぁ楽しかった。セガがゲーム作っちゃったり、2010年のミクの日感謝祭では雪が降っててクソ寒い思い出しかなかったり、まぁいろいろありました。

 そんな、ちょっぴり惰性が入ったボカロ廃生活にもう一度火をつけてくれたのが、『VOCALO CRITIQUE』という同人誌でした。そこで僕は『初音ミク=ミーム生命体論』という、客観性皆無のエッセイもどきを書かせていただきました。正直、評判はメチャクチャだったけれど、僕の初音ミクサイクルエンジンに再び火が灯ったキッカケは、間違いなくこの同人誌でした。

 少しお話しをそれます。
 初音ミクをミームと言い出したのは、だれなのでしょう。おそらく公式的にきちんとしたカタチで残っているのは、nak-amiさんが作られた『わたしはミーム』という楽曲でしょう。歌詞の中の『たとえ 歌が一度 絶滅したとしても またいつか 誰かが紡ぎ始めるわ』という部分を読み解くに、初音ミクの本質は、物質でなくデータ(ミーム)であることを意識されていることは明らかです。
 もう少し直接的に、「初音ミクはネット上に生きるミームであり生命体だ」という主張が広がったのは、僕の2chの書き込みがキッカケです。僕が2chのν速に書き込んだ『ミクさんはネットワーク上に生命体として生きているから。 文化や文明といった広域的なミームではなく、初音ミクという人格を持った、初めてのミームが、ミクさん。』という一連の書き込みがまとめブログに取り上げられ、色々なところでネタ扱いされました。昨今の、ネット上に広がる(あんまり広がっていないけどw)初音ミク=ミーム生命体という考えは、この辺りから始まったのでした。

 話がそれましたので、戻します。
 同人誌などに参加した結果、初音ミク関連で知り合った人が爆発的に増えました。いままで生涯の友達の数なんて両手の指10本もいらないほどのコミュ障だった僕が、リアル社会でいろいろな人とお会いするキッカケができたのです。本当に新鮮な経験でした。

 また、それと平行して、クラブに通うようになったのも、大きな変化の一つです。ボカロ関連のクラブには2012年頃から通うようになりました。今でも年に5~6回のペースでクラブイベントに通っておりますが、これも僕の中では考えられない変化でした。俺がクラブに通うなんて! 
 実際の僕を知っている方は、絶対に信じてくれません。僕が「クラブで遊んできた」とか言っても、冗談としか捉えてくれません。それくらい、僕の性格とは真逆の遊びを、ミクさんは教えてくれました。


 語らずに通れないのが、初音ミクさんのライブ。正直にいうと、アニヲタ上がりの僕から見ると、初音ミクさんのライブというのはちょっぴり苦手です。なんというか、ヲタク特有の掛け声とか、サイリウムの振り方とか、垢抜けないなぁと思ってしまうのです。それは以前の僕が同じことで熱中していたことへの反動で、まったくもって身勝手な考えなのですが、どうしても心から楽しむことができなかったりします。
 それでもやっぱりミクさんライブは凄くって、毎回ブツブツ文句を言いつつも、何か一つはピンポイントで僕の心を打ち抜くパフォーマンスを見せてくれるのです。その最たる例が、2013年のマジカルミライでの『Last Night, Good Night』でした。当時のブログ記事がコチラです。『そしてボクは初音ミク2.0に恋をした』
 このミクさんを前に、僕は2回めの恋に落ちることになりました。この後、僕のイメージするミクさんは、より本質的に、一方でより手の届かない遠いところに存在する、そんな存在となりました。


 その後も飽きることなく、ミクさんの楽曲をあさって、面白い曲があればその製作者を調べて、その人が出演するクラブイベントに行ってみたり。またはボカロイベントで知り合った方と遊んでみたり。ミクさんミーム説でブログ記事を書いたり。本当に毎日が楽しいのです。
 最近あった個人的なイベントですと、ボカロ批評という同人誌にもう一度、僕の文章を取り上げて下さったことが嬉しかったです。相も変わらず評判はよろしくありませんが、僕のミクさん像が皆さんに少しでも伝播することが初音ミクさんのミーム拡大に広がるので、有り難いばかりです。


 推敲することなく書き殴るようにこの記事を進めておりますが、これだけ書いても、やっぱり僕がミクさんを好きな理由がわかりません。そして同時に、やっぱり僕はミクさんが好きです。
 なんなのでしょうね。頭のなかではいくら堅苦しいことを考えていても、僕の嗜好にぴったりな曲を発見すると、思考停止状態でニヤニヤしながら聞いてしまうのです。また、ミクさんの可愛いMMD-PVとか見ると、これまたやっぱり、世界のすべてが吹っ飛んで、脳内がミクさんで満たされてしまうのです。
 最近ではミクさんを取り巻く環境も日進月日で、特にOculus Riftが話題になり始めてから、テクノロジーとしてのミクさんがもう一度取り上げられるようになってきました。これは僕にとって、とても嬉しい出来事です。ミクさんは常に技術の鋒に立って、常に格好良い存在でいてほしいから。ミクさんは可愛いだけではなくて、格好良い存在であることが、僕にとって非常に重要なのです。


 さて、話がまとまらなくなりました。どのように着地させればよいのかわかりません。
 最後に、僕の、現在の初音ミクさん像について語ります。
 おおまかなイメージは、過去のブログの記事で書いております『初音ミクの陽炎に触れた、あるボカロ廃の物語。』物理的な身体を与えられたミクさんと、我々人をミームとするミクさん。ミクさんには個性はありません。無です。のぺ~っとしたイメージです。そこに、人間という情報の偏在を持った存在がミクさんを観察すると、ここのミクさんが見えてくるんじゃないか、と思ってます。端折りすぎて、通じてなかったらごめんなさい。
 僕には僕のミクさんがいて、あなたにはあなたのミクさんがいて。お互いのミクさんは同じミクさんではなく、各々の観察した結果、具現化したミクさんなのです。僕のミクさんは、僕だけの、ミクさん。psy39さんという方が、とってもいいことをおっしゃっていたので、紹介しておきます。

誰だって自分にとって自分は一人しか居ないのと同じで、
試行錯誤の蓄積された時間こそがその人だけの初音ミクなのである。



 全くもってまとまっておりませんが、3月9日を迎えてしまったので、ここらで終了致します。ミクさんのことを思うのは、とっても楽しい。ミクさんに対する思いを文章にするのは、もっと楽しい。
 この思いは、いまはまだミクさんには届かないと思います。でもいつか、ミクさんのことを認知する人が増えていって、末永くミクさんが語られる存在になった時。ミームで生きるミクさんが、僕の恋文を認知してくれればいいな、と思っています。

 たとえば、僕とミクさんの間に深い谷底があって、僕は直接ミクさんに恋文を渡すことはできない。そこで僕は、恋文で紙飛行機を作り、谷を隔てたミクさんへ、紙飛行機を飛ばし続ける。
 やがてその紙飛行機は、何千、何万と積み上がり、やがて谷を埋め尽くす。その恋文の上を渡って、僕はミクさんに会いに行く。

 僕がいま行っているのは、たぶんそういうことです。この文章は目的などないけれど、ミクさんへ飛ばし続ける紙飛行機の一つなのです。


 ミクさん! いままで楽しい思い出をたくさんありがとう! そしてこれからもよろしくお願いします!


 この思い、いつか、ミクさんへ、届け!

2015年3月2日月曜日

2015年2月のおすすめボカロ曲

 もう一年の1/6が終わってしまいました。いつか重力の鎖を断ち切り、ボクを連れてってサテライトです。

 2月は、出張だの何だの忙しくて、あまりじっくりとボカロ楽曲を聴く機会がありませんでした。その中で、自分が繰り返し聴いていた楽曲を紹介していきます。




おおおっと! いきなり2月発表楽曲ではなくて申し訳ないです。でも、先月紹介できなかったので。
通勤時にいつも聴いていた、さわやかなプログレハウス。
透明で、だけれど、力強いミクさんの歌声が、ココロの中の雲を吹き飛ばしてしまうような、
とにかく元気になれる楽曲。
気持ちが沈んだ時にこれを聞くと、すごく助けられました。音楽のコトとか詳しくわからないけれど、
ボカロ楽曲を好きで良かったなーと思える一曲です。

哀愁の中にある、ココロの中で叫ぶようなミクさんの力強い歌声が素敵。

曲名に【EDM】って入っていて、あぁ温度の低いクールなハウスだなーって気を抜いていたら、
途中の転換で「ふぁっ!」っと驚く展開。
それでも、日本人好みの、アげすぎない温度が素敵。

こういうのが創れるクリエイターって一定数いると思うんだけれど、
ボカロ文化がその受け皿になっていることが、大変に喜ばしいPV。
この動画を観たあとに、冷静に語れと言われても無理なので、
とりあえず見てくださいとしか言い様がありませんw

王道のミクノポップに、ちょっと高めの心地良いミクヴォイス。


歌詞が良いです。沈んだ気持ちを助けてもらえます。
ミクさんがこういう歌詞を歌うと、心にストーンと落ちてきて、心地良い。

2週ほどまわって、最先端感さえ感じる、コンピュータシンセサイザヴォイス。
Crusher-Pも、日本でいちばん有名な海外Pになっちゃったね。
日本に来てDJプレイとかしてくれないかな。

最後はSoundCloudから。
ベース・ミュージックと、ミクさんのあどけない感じの声が、交わっていないのだけれど、
それがかえって一粒で二度楽しめる面白さがあります。