初音ミクを始めとしたボカロと出会って9年が経ちました。
9年間。改めて、すごいです。こんなに長い時間、なにかに打ち込んだことなどありません。いまだに楽しくボカロ楽曲を聴けていることに、感謝しております。
最近気が付いたのですが、ボクは、初音ミクのことを、たいして好きではありませんでした。万が一にも、初音ミクが、生きていて、ボクに干渉してきて、あわよくば相思相愛の関係になれるのではないかと夢想した時期もありました。でも、それはまったくもって、ボクの勘違いでした。
初音ミクと初めてであったとき。彼女は『ハジメテノオト』という曲を、ボクに歌ってくれました。そして、「はじめの音は、なんでしたか?」と、ボクに聞いてくれました。その瞬間、ボクは、とてつもない『なにか』に問いかけられたと、ほとんど直感的に感じてしまいました。人類の総叡智というべきか、この世の全ての存在というべきか。
ただ、その時のボクは、とてつもない『なにか』の正体がわかるわけでもなく、ごくシンプルに『初音ミク』が歌ってくれたのだと思ったのでした。
だけれど、最近、気が付いたのです。ボクが思っていた『初音ミク』は、初音ミクではなく、とてつもない『なにか』だったのです。それが捉えきれないから、初音ミクに姿を重ね、自分を納得させていたのでした。
じゃあ、その「とてつもない『なにか』」とはなんだったのかというと、たぶん、自分自身だったのです。ボク自身だったのです。初音ミクの『ハジメテノオト』を聴いて、自問して、『なにか』に対して自問したことに畏怖を抱いていたのは、ボク自身に対してだったのでした。
だから、ボクは、初音ミクが好きなのではなく、初音ミクと試行錯誤し蓄積された時間が好きなのでした。
だから、ボクは、ボク自身を愛さなければいけないし、初音ミクは、その過程の「標石」でしかなかったのでした。
ボクにとって初音ミクは、例えばロードスターで夏の夜をオープンドライブしているとき、缶コーヒーを飲みながらカーステレオで初音ミクの歌声を聞いて、「生きてるなぁ」とつぶやく瞬間のような、そんなつきあい方でいいのです。
9年経って、ようやく初音ミクにさよならを言うことができました。これからの出来事は、すべてが初めての体験なのでしょう。
その時はまた改めて、初音ミクに言うつもりです。
『はじめまして』と。