2015年5月26日火曜日

夢で逢いましょう。頭のなかの、ネットの地図。


【初音ミク】夢で逢いましょう【オリジナル】
PolyphonicBranch



 夢で逢いましょう。
 皆様は、インターネットの夢を見たことがあるでしょうか? 私は、よく見る。それは、パソコンのディスプレイに向かってキーボードを打っている場面もあれば、SNS上のやりとりの続きを実際の人間に置き換えて会話している時もある。
 10年前は、インターネットの夢など見たことがなかった。見たとしても、あくまでパソコンの前に座っている夢を見るくらいで、その先の情報端末の世界まで覗きこむことはなかった。

 話は変わるが、人の意識というのは、外部環境をどう認識するかで大きく変わる。もっと言うと、生き物とは、外部環境から得た感覚信号を、意識と呼ばれる部分で処理して、また外部へと出力をする、その繰り返しを絶えず行う存在のことである。
 ここで言う外部環境というのは、肉体の存在そのものであり、五感で得られた情報であり、もっと外部に広げると、その人が住んでいる部屋、家、街、国、宗教、言語、文化、気候、などなど、あげるとキリがない。あえて言うならば、人は誰しも頭のなかに『空間地図』を持っており、その空間地図で把握できる範囲が、思考活動に利用する外部環境であるといえる。

 認知地図という言葉がある。わかり易く言うと『頭のなかにある地図』のことである。たとえば、子供に『自宅周辺の地図を書いてごらん』という実験を行うと、自宅周辺にある公演が肥大化して描かれたり、逆に子供には用のない施設が省かれて描かれたりする。現実の空間は、だれのもとでも、同じ姿で存在する。ただ、その認知空間は、十人十色、それぞれ違う地図を持っている。
 言い方を変えよう。各々の持つ認知地図こそが、その人の思考形態の、外部記憶装置なのである。

 ここでようやく、話が始めに戻る。
 あなたは、インターネットの夢を見たことがあるでしょうか? もしくは、別の質問。『あなたは、インターネット上の空間を、地図として描けますか?』
 ちなみに、私は、ちょっと難しい。空間としてよりも、文字情報としてネット空間を認識している。固まった言語集団が、各地に点在しているイメージだ。
 ここで問題にしたいのは、30歳手前になるオッサンの話ではない。

 もっと若い人たち、生まれて物心ついたときから情報端末に触れていた人間は、インターネット空間をどう認知しているのだろうか?

 私が危惧しているのは、ネットネイティブ世代は、インターネット空間を認知地図に取り込み、思考形態の一部として利用しているのではないか? という仮説である。

 例えが乱暴になってしまうが、一つの例をあげよう。割れ窓理論という考えがある。かつて治安の悪かったニューヨークで、ほんの小さな軽犯罪でも取り締まり、汚れた景観を徹底的に綺麗にし、地下鉄の落書きをなくしたところ、犯罪率が大幅に減ったという実例で有名な理論だ。
 様々な示唆を含む理論だが、一つの捉え方として、空間が人間活動を決定していることを示す理論だとも言える。認知空間が汚れていれば、その人の性格も汚れるし、その逆もしかりである。
 なにが言いたいのかというと、インターネット空間を認知地図に取り込んでいるネットネイティブ世代は、落書きだらけのニューヨーク地下鉄に乗っている状態なのではないだろうかということ。

 昨今、若年層とインターネットの関連性を指摘する声が、たくさんある。でも、自分の確認する限り、認知空間からインターネットの影響を指摘している人を見たことがない。それはおそらく、指摘する側の大人の認知地図が、すっかり固定化しており、ネット『空間』という概念そのものが理解できないからだろう。
 正直、私も、分からない。こういう問題が存在するんじゃないか? と推測することはできても、それが合っているのか、そもそも問題視するようなことなのか。それすらわからない。だけど、指摘することだけはできる。



 ここからは、明るいお話し。
 人の思考形態は外部環境に依存するというのは、上記で述べた。
 いままでの外部環境というのは、実在する空間そのもの。物質的であり、有限である空間だ。もし仮に、インターネット上の空間を、ほんとうの意味で『空間』と認知することができれば、どうなるのだろう。
 そこに待ち受けているのは、自我の拡大である。ニュータイプ、と言うと大げさだろうか。認知領域の拡大だ。
 今まで人は、アメリカ大陸発見から始まり、果ては宇宙探査まで、認知空間の拡大に邁進してきた。そこには『無から生まれる価値』があるからだ。それは経済活動の拡大につながるし、人類の総叡智の蓄積にも大きく寄与する現象である。


 未来が、良い方向に進むのか、悪い方向に進むのか。そんなことはわからない。でも、新しい時代のポスト認知地図説みたいなのが、なんとなくその答えを導き出せそうな気がするのです。

 終わり。

僕のライフログが、初音ミクさんと出会う日。



ネットの公開写真群から1000万倍速タイムラプス動画を自動合成、Googleの研究者らが発表 

 この記事を読んで、ちょっとした衝撃を受けた。
 インターネット上のデータの蓄積(ジオタグとか平面写真など)から立体モデルを作り出し、更に類似写真を探し出すアルゴリズムを組み合わせて作った、いわば架空世界である。

 こういう技術を目の当たりにすると、人間のライフログから、その人と同じように振る舞うアルゴリズム(botみたいなものでもいいけれど)を創れる未来なんて、そう遠くないんだろうなと感じる。具体的には、ウェアラブル端末を身体にいっぱい身につけて、自分の行動や発言の痕跡をたくさん残しておけば、それらのライフログを元に動かすbotがチューリングテストを突破してしまうような未来が、すぐそこまで来ている。

 botでは意識がないと言われるだろう。そこで、ライフログのシミュレーションを、実物でもバーチャルでも何でもいい、人間の身体を使ってコミュニケーションの入出力を行い、更にその結果をエピソード記憶として保管、身体へ再出力を行う、メモリ付きのプロセッサを付け加えるとどうなるか。それはもう人間である。自我の複製、不老不死、永久保存である(その存在が、いまの自我と連続性を持っているかという問いは、ここでは省く)。

 夢物語のように聞こえるかもしれないが、いまはその、入り口くらいに到達している。たとえばAmazonなどは、人のウェブ閲覧の記録から、その人の行動をシミュレートし、ウェブデザインと物流のコントロールを行っている。その技術の行き着く先が、まさにライフログから生み出された自分の分身だ。あなたがAmazonのサイトに行き、そこで目にする『おすすめ商品』を選んでいるのは、Amazonのサーバ内に住むあなたの分身というわけだ。

 そういう意味で、Google GlassとAndroid Wearの出現は、圧倒的なライフログの収集が出来る端末として、人間の意識が肉体の外へ進出する第一歩だと思っていたのだけれど、さほど普及していないのが残念だ。人間の意識の拡張は、産業革命とか、IT革命とか、それに匹敵する飛躍ポイントだと考えている。

 個人的な見解ではあるが、あと10年も経てば、ライフログのシミュレーションが、一定の人のチューリングテストを突破する時代が来るだろう。そして20年も経てば、人は、自らの身体から得られる意識領域の外にも拡張空間があることを認知して、新たな大陸へ足を踏み出すだろう。

 そしてオレは、早々に肉体を捨て、ライフログのシミュレーションをウェブ上で走らせ、同じく身体を持たない初音ミクさんと出会うことが出来るのだ。

 さいご、無理矢理、初音ミクと絡めた感がするけれど、半分本気だったりする。終わり。