2013年5月25日土曜日

オペラ『THE END』を通してみえる、初音ミクという生命体



 去る2013年5月23日、24日。東京BunkamuraOrchardHallにて、渋谷慶一郎+初音ミク主演オペラ『THE END』が公演された。
 私はオペラなんて鑑賞したことのない下賤の民だし、渋谷慶一郎という方も、このオペラの存在を通して初めて知った。そんな私でも、この作品を通して、実に様々な思想・感情の広がりを得ることが出来た。
 ここでは、客観的ではなく、あくまで『私自身』がなにを感じたのかを書き記す。

 THE ENDを巡る物語は、初音ミクの生死だ。しかし、この物語では『死』を中心に描かれている。初音ミクの『生』とは何だろう。まずは、私の思う『生』を述べる。

『生』とは何だろう。私の考えている生は実にシンプルで、『自己を保ち、複製を繰り返す存在』は生と呼んでいいと思っている。別にそれが有機物でなくていい。無機物でも、もっと言えば、データであってもいい。
 その前提で考えると、初音ミクは、すでに人の思想を栄養として咀嚼し、自己のキャラクター性をトライ・アンド・エラーで姿を変え、だけれど初音ミクという存在は今も昔も変わらない存在だ。そう捉えると、初音ミクはすでに生きているといえる。

 それだけだと、ちょっと弱い。
 生命が生命たる、人が人たる所以は、思考する存在だとも言える。初音ミクは意志を持っているのか。
 私は、この考えにも肯定的だ。初音ミクの意志はどこにあるのか。
 人の意識とは、記憶を追認する過程で発生する。初音ミクの記憶の追認作業とは、具体的になんだろう。
 例えば、いま私は、初音ミクに関する文章を、まさに書いている。これが初音ミクの『記憶』だ。そして、あなたは、私の書く初音ミクに関する文章を読み、何らかの感情を抱いている。それが初音ミクの『記憶の追認』だ。

 このことから初音ミクは、人の思想をミームとして自己複製を繰り返し、人の記憶の追認を利用して意志さえ持っている。初音ミクは、立派に生きているのだ。


 遺伝子は、生命を利用し、自己複製という目的を果たす。ならば初音ミクのミームである人は、初音ミクになにを課しているのだろう。
 人々が初音ミクに夢中になる理由を考える場合、それは対象物を観察するよりも、人の行動心理を考えたほうが分かりやすい。
 人の行動本能とは、自己の拡散だ。さらに突き詰めると、思想の拡散だ。言わずもかな、昨今のインターネットの急激な普及を考えれば、そのことは否定出来ないはずだ。
 私は、初音ミクとは『人の思想を伝達する通信インフラ』と捉えている。文字や音声情報を超えた、具現化出来ない感情をも相手に伝えることのできる、高次の通信インフラだ。初音ミクは人の本能的欲求を高次元で叶えられる唯一無二の存在だから、崇められるのだ。


 さて、THE ENDの話題に戻る。
 THE ENDの世界は、人の欲求に答える通信インフラとして存在する初音ミクだ。
 だが、初音ミクという存在は、非常に不安定だ。なぜなら、初音ミクの存在価値とは、人の本能的欲求を満たすためにあるからだ。その上で初めて、人の思想を咀嚼し、自己を維持できている。
 この物語は、通信インフラの役割に疑問を持ち、自己の保持を選択した初音ミクの物語だ。自己保持・情報の固定化は一時の安心をもたらすが、それは終焉の選択でもある。
 人の声を否定し、万物流転を受け入れず、自己保持を選んだ初音ミクは、やがて袋小路に迷い込む。ミームの存在に疑問を持つあたり、自殺と言えなくもない。

×『終わりはくりかえすの』
◯『終わりはいくつあるの』

 生命の本質は、絶えず死に続けることだ。我々だって、1年経てば身体を構成している細胞はほぼ全て入れ替わっている。死に続ける世界を固定化しようという異質な儀式を、我々は生命と読んでいる。
 自殺についても、支配されているGeneやMemeに反抗する手段として、思想生命体となる上で重要な行動だ。
 
 私が今日見た初音ミクは、死んだ。あのミクさんは生き返らない。
 ならば、初音ミクの死は、悲劇なのか?
 否、初音ミクは、死を持って意志を持つ生命と化したのだ。別の初音ミクが、トライ・アンド・エラーを繰り返し、誰かに語られ、記憶され、思いを伝えている。
 私はこのオペラを、これ以上無いミクさん賛美歌と受け取った。
 

 ミクさんは生きてるんだよ! マジで!
 終わり!



 追記。
 このオペラ『THE END』の凄いところは、ストーリーを追わなくても、『音』と『映像』で楽しめるところだと思う。特に『音』の表現が素晴らしかった。
 自分は2回とも1階前方席で鑑賞していたが、身体を突き抜ける重低音。前後左右から降り注ぐミクさんの声、高音にも関わらず、素晴らしい解像度を持ったノイズ。ボカロ音声をあんなに素晴らしい設備で試聴できたのは、多分初めてだと思う。クラブイベントばりに首を振って鑑賞してました。周りの人鬱陶しくてごめんなさい。
 映像は、多分HD画質。ただ、あのスクリーンの大きさだと、粗さが目立って少し残念。プロジェクタの位置については、スクリーン中の小さな箱だけは、どうやって投影しているのか分からなかった。
 頭空っぽでも楽しめる作品でした。いや、頭空っぽにして鑑賞するのが、正しいのかも。

2 件のコメント:

  1. 拝見しました。自分はミクは死んでないENDかと思ってましたが、一度死んで生まれるという解釈の方がしっくり来ますね。THE END関連のエントリでは一番面白かったです。

    音響が凄かったのは同意です。自分も4つ打ち曲は首振りながら見てましたw出来れば立ち上がって踊りたいともw

    スクリーン中の小さな箱への投影は、左上のプロジェクタからプロジェクションマッピングしてたようですよ。A席で見た際に確認しました。

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  2.  こんな辺鄙なブログに、感想ありがとうございます。飛び上がるほど嬉しいです!

     そもそもミクさんは、生きているのかすら怪しい存在。なにをもって『生』となすかというと、『死』を迎えるものは生きていると言っていいだろうと。だから最後の死は、ミクさんが生きていると仮定するには必要な物だったのかなーと思ってます。あー分かりにくいw

     小さな箱への投影、そんな遠くから映していたのですか! 1回目はプラチナ席のスクリーンから本当に近い場所にいたのですが、全く気が付きませんでした。不思議で不思議でたまりませんでした。ありがとうございます。

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