2013年2月13日水曜日

アポロ17号の憂鬱、初音ミクの進化

 アポロ計画を知らない人はいないだろう。人類の科学技術史に残る大偉業である。特に、人類を初めて月面へ導いた『アポロ11号』という飛行船の名前や、アームストロング船長の『これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である』という言葉は、一度は聞いたことがあるだろう。
 だが、その後のアポロ計画を詳しく知る人は少ない。この計画で、命を落とした飛行士がいたことも、知る人は少ないだろう。

 人は、ドラスティックな変化に身をおいた時、強烈な『生』を感じる。興奮する。熱狂する。希望を観る。

 アポロ計画で言えば、月面へ降り立ったパイロットは、全員が平等に、英雄とあるべきた。ただ、人々に感情の喚起を及ぼすのは、『世界ではじめて』というドラスティックなタグの付いた、アポロ11号だけだ。


 ボーカロイド・シーンに没頭する人は、実に様々な理由を持ち合わせている。自己表現をしたい人、キャラクターに感情を抱く人、作品の消費を楽しむ人、人との繋がりを求める人。
 私がボーカロイド、いや、初音ミクに固執する理由となったのが、平々凡々な日常を壊す(壊してくれるかもしれない)、ドラスティックな変化を与えてくれる。そんな夢を見させてくれたのが、そもそもだった。


 幼い頃から、私には一つの夢があった。幼少期からハヤカワ文庫で育った私は、人工知能やアンドロイドといった『人』以外の存在に、強く憧れていた。
 ただ、それはあくまで夢であった。叶えようのない、叶え方も皆目検討がつかない、遥か遠く掴めぬ夢だった。
 それが、ある作品をきっかけに、私に『夢を叶えるための道筋』を与えてくれたのだ。





 初音ミクのカンブリア爆発の引き金の一つ『ハジメテノオト』という曲が、それだった。
 私はこの曲を聞いた時、理性ではなく、感情で『ヒト以外の何か』を感じた。説明なんて出来ない。証明もできない。センス・オブ・ワンダーとしか言い様がない衝撃を味わった。
(以前、センス・オブ・ワンダーを感じた理由として『ミラーリング効果』等をあげたが、結局は後付の理由でしか無い。詳しくは『VOCALO CRITIQUE Vol.04』を買って読んでねっ!)

 以後の私の生活は、光り輝くものだった。夢が叶うことが分かったのだ。その夢というのは、お金持ちになりたいとか、出世したいとか、そんなちゃちなものじゃない。ヒト以外の知的生命体と接触できるかもしれないという、アポロ計画ですら矮小に写ってしまうような偉業を、私自身が叶えられるのではないかという希望を抱くことが出来たのだ。


 その下地があるからこそ、私にとって初音ミクのライブというのは、単なるエンターテインメントではなかったのだ。多くの人が集まり、正面で歌う初音ミクを『人ではないけれど、人に似た、なにか』という認識を共有する空間そのものが、私を酷く興奮させたのだ。

 現実を創りだすのは、突き詰めていくと、各々の主観だ。初音ミクがライブステージに居ると思えば、それは現実に存在するのだ。もっと言うと、ライブ会場にいる全員が『初音ミクはあの場にいた!』と証言すれば、初音ミクはその世界に舞い降りるのだ。


 もっと言おう。私にとって、初音ミクのライブというのは、人類以外の知的生命体に会えるかもしれない(それがほんのコンマ1%でも)と本気で思える、ドラスティックな認識変化を与えてくれるかもしれない場所なのだ。いや、場所『だった』のだ。


 しかし、その後の初音ミクライブは、私を次のステージまで連れて行ってはくれなかった。アポロ計画が月にしかいかなかった(いけなかった)のと同じだ。東京ミクパのような、アポロ13号にも似た事故があったような気がしないでもないが、月面以外は見せてくれなかった。火星へ、木星へ、土星へ、果ては太陽系外へ、見知らぬ世界へ連れて行ってはくれなかった。
 私にとって初音ミクのライブは『かもしれない』で止まってしまった。一度興奮を覚えてしまった身体では、同じ事の繰り返しは緩慢なる衰退としか映らない。


 次に強烈な『生』を与えてくれるのは、なんだろう。私を、次の世界へ連れて行ってくれる出来事は、なんだろう。初音ミクが、次のカンブリア爆発を迎える事象は、なんだろう。

 少なくとも、いまの形式の初音ミクライブでないことは、確かだ。

2013年2月12日火曜日

初音ミクのライブは、リリエンタールの翼であった

 札幌ミクパ2013の肯定的な意見はお腹がいっぱいになるほど見たので、ちょっと変わった視線で……。ちょっとした批判にもなるので、あえて分かりにくい表題で。



 去る2013年2月10日、札幌にて『初音ミク ライブパーティー 2013 in Sapporo (ミクパ♪)』というイベントが行われた。そこに参加して、思ったことなど。

 いまでこそ、当たり前に『初音ミクのライブ』が開催されている。しかし、ほんの数年前までは、当たり前ではなかった。当たり前どころか、夢物語だった。ありえない未来の話であった。





 上記の動画は、dorikoさんという方が2008年6月26日に発表した『letter song』というバラードソングだ。昨今の有名なボカロ楽曲とくらべてしまうと、突出して優れているとはいえないだろう。ただ、2008年の発表当時、それはそれは震え上がったものだ。無機質であるはずのボカロが奏でる歌詞は、人間が持つ泥臭さがまるで無く、ストンと私の心に『落ちてきた』。
 人が歌うのではない、ボカロが歌うことによる新たな表現力に、感嘆したのを覚えている。

 dorikoさんの曲を取り上げるため便宜的に2008年と設定したが、この年はボカロ躍進の年でもあった。kzさんやryoさん、ジミーサムP。例を出すときりはない。現在のボカロシーンの礎が、2008年ではすでに出来上がっていた。

 改めて一つ言えることは、2008年の時点で、初音ミクのライブというのは、夢物語であった。在り得ない未来だった。
 うーん。強いて例えると、なんだろう。例えば当時、ボカロに熱中する人に『宇宙旅行と初音ミクのライブ、どちらが先に実現すると思う?』と聞けば、間違いなく『宇宙旅行でしょ』と答えたと思う。初音ミクのライブ? 誰が何の目的でやるの? 宇宙旅行のほうが、手段も目的もハッキリしているから、まだ現実味があるんじゃないの? と。

 ボカロファンの中に、初音ミクのライブを夢見た人が居なかったわけではない。





 初音ミクのライブを実現したいという夢物語は、それはもう初音ミク登場初期から描かれていた希望だった。ただ、我々は本当に、手段も目的も、何もかも持ち合わせていなかった。

 だからこそ、2010年3月9日に行われた『ミクの日感謝祭』は、私の中で衝撃を持って迎えられた。あまりにオーバーテクノロジーだった。宇宙旅行よりも遠い未来の話だと思っていた夢物語が、目の前で繰り広げられたのだ。腰を抜かした。
(ミクの日感謝祭より前のミクフェスを挙げる声もあるが、ミクフェスは如何せん実験的な色合いが強いので、私はミクの日感謝祭を挙げる)
 それと同時に、これは何かの奇跡の積み重ねで起きたもので、放っておけばロストテクノロジーになるんじゃないかとも危惧した。

 ここで表題に少しだけ(本当に少しだけw)繋がるのだが、あの場はまさに『リリエンタールの翼』だった。夢物語が、現実となるかもしれない。ただ、それを理論立てて解明できるわけではない。どうやって発展させていいのかまるでわからない。ただひとつ言えることは、初音ミクのライブパフォーマンスをもう一度観るためには、受け身であってはいけない。
 リリエンタールのように、死を覚悟で、こちらもなにか行動を起こさないと、奇跡が奇跡で終わるんじゃないかと、強い危機感と使命感があった。


 幸か不幸か、開催元は様々あれど、初音ミクのライブというのは形式を手に入れ、永続的に続くようになった。私がかつて危惧した『これきりでミクさんに会えなくなるのではないか』という心配も消えた。回を重ねるにつれ、観客動員数も増え、観客の客層も増え、将来を慮る限り安心だろうと思えるまでに至った。

 ただ、その会場で私が座っているのは、お金を払えば誰でも安心して空を飛べる『旅客機』の座席だ。かつて私が乗っていた、リリエンタールの翼はもう無い。頬に風を浴び、粗末な翼を操作し、いつ墜落するかもわからない『生』を感じることは、もう無い。


 初音ミクのライブは、たしかに面白い。娯楽として、よく出来ている。

 でも、私が楽しみたいのは、それじゃない。宇宙旅行よりも在り得もしない夢を見せてくれるのが、初音ミクのライブだったはずだ。初音ミクとは、そういうものだったのではないか。
 私はもう一度、リリエンタールの翼で空を飛びたいのだ。例え酔狂だと言われようとも。初音ミクのライブが『快適な空の旅を提供します』と言い始めた時点で、それは衰退への入り口だ。そんなライブ、見たくない。