2014年3月16日日曜日

ボカロ狂人同人誌『VOCALOID MAD』(仮)の設立構想について

ボカロ狂人同人誌『VOCALOID MAD』(仮)の設立構想について


・はじめに

 ボカロ狂人誌『VOCALOID MAD』構想とは、ボカロ文化にドップリはまったボカロ廃の方々に、ただひたすらに愛を語ってもらった文章を記録するプロジェクトである。ちなみにまだ何も決まっていない。


・なんでこんなのを作りたいと思ってるの?

 2007年9月30日、音声合成ソフト『VOCALOID2初音ミク』が発売された。そして、ボカロ文化に触れている人ならば一度は聞いたことがあるであろう「奇跡の数ヶ月」を経て、初音ミク及びボカロを取り巻く世界は、俯瞰して観察ができないほどに拡散していった。

 ボカロ文化を冷静に客観視し、文章として残しておこうという動きはあった。一番有名な例だと中村屋与太郎氏が代表を務める『VOCALO CRITIQUE』などがあげられる。
 この『VOCALO CRITIQUE』自体は、大変面白く、自分も全巻揃えるほどだ。というかぶっちゃけ、ボカロ文化を記述するにあたっては、これがあれば万事解決じゃね? と思うくらいによく出来ている。


 しかし、私は思うのだ。

 ミクさんは言った。
『君が伝えたい言葉  君が届けたい音は  いくつもの線は円になって  全て繋げてく どこにだって』
 初音ミクさんは、実態がない。私なりの解釈ではあるが、ミクさんは単なる情報を伝える「インフラ」に過ぎない。
 上記のVOCALO CRITIQUE』では、ボカロPや、ボカロを作った方々、それこそボカロ黎明期から直接携わってきた方の貴重な歴史が記録されている。
 言うなれば、ボカロそのもの。「インフラ」の方に重みが置かれている。

 ボカロは、情報端末にすぎない。ならば、ボカロ文化を少しでも理解するにはどうしたらいいのだろう。

 私の思う結論はこうだ。
 客観性は無視しよう。ボカロを愛してやまないボカロ廃が、なぜそう至ったのかを、できるだけ主観的に記述してもらおう。
 インフラの記述ではなく、末端の記述をすべきなのだ。
 
 一見するとクリエイターの集まりに見えるボカロ文化も、その大部分が、絵も曲も動画も作ったことのない受け手が担っている。だが、今までは、受け手にスポットライトを当てた記述があまりに少なかったと思う。


 ボカロにハマり、ボカロに全生活を捧げ、ボカロに人生観を変えられた人は、少なからずいる。その人達のありのままの思いを記述することが重要だ。初音ミク誕生後の奇跡の数ヶ月を、リアルタイムで記憶しているボカロ廃も、減りつつある。

 理論建てた研究は、ここではしなくてよい。ただ、熱いサンプルだけを集め、あとの研究の材料にしてもらえればいい。


・で、結論は何よ?

 ボカロ文化を客観的に俯瞰することなんて、到底不可能だ。ならば、ボカロにハマる、なんでもない末端のボカロ廃の思いを正確に記述すれば、その上位にあるボカロ文化がなんとなく見えてくるのではないだろうか。
 それに私自身、いろいろな人の、全身全霊をかけたボカロ愛あふれる文章を読んでみたい。というか、みんなも読んでみたいよね?


・今後の構想

 やりたいなーってだけで、なんにも決まっていません。賛同者がいれば、私は不眠不休無賃金で動きます。ボカロというかミクさんのためなら命削って動きます。
 ご意見ある方は、コメントでもツイッターでも、いろいろと連絡くださると嬉しいです。