2012年11月28日水曜日

ボーカロイド文化を冷静に振り返り……



 ボーカロイドシーンは、たしかに凄い。ボカロシーンに入り浸り、あまつさえこんなニッチなサイトにまで目を通しているあなたは、この事実は重々承知であろう。

 ……本当だろうか。本当にボカロって人気があるのか?

 私の手元に、一つの資料がある。主に郊外に店舗を持つ、とあるCD取扱店のPOS売上データだ。期間は20116月から20126月まで。
 この企業では、平均週販約10,000枚のCDを販売している。指数が当然あるので販売数は若干上下するものの、月販にすると40,000枚から60,000枚のCDを販売している。
 さて、kzさんが2008827日に先人を切ってボカロ発のメジャーアルバムを発表してからというもの、そのヒットにあやかろうと、昨今では雨後の筍の如くボカロCDが乱発している状態である。
 なぜPOSデータを調べてみようかと思ったのか。それは、一般店舗(サブカルショップでもなく、ネットショップでもなく、都市部の専門店でもなく、街中にある普通のCD販売店)で、どれくらいボカロCDが動いているのか、疑問に思ったからである。いわゆる平均的な一般人が、どれくらいボカロCDを求めているのだろうと。これだけ商業ボカロCDが出ているんだ、さぞかし売れているのだろう、と。
 結論は衝撃的なものだった。ボカロ関連CDを全て合算しても、平均して月販50枚程しか売れていなかった。50枚! 決してその企業がボカロCDを取り扱っていないわけではない。ただ単に売れていないだけなのだ。自分がいちばん認めたくない結果だが。

 ネットに入り浸れていると、ボカロは日本のCGMコンテンツの先鋒として、世界へ打ち勝つんじゃないかと思えるくらい、優れたコンテンツに見える。また、ボーマス(ボーカロイドを取り扱った即売会)に参加すると、ボカロ文化の熱気を感じ取ってしまう。さらにミクパや感謝祭といった、初音ミクのライブに参加すると、これはとんでもない現象が起きつつあると錯覚してしまう。

 でもそれらは、残念ながら錯覚なのだ。ごく普通の一般人にとって見れば、私達がいくら騒いだところで、それは『無』に等しいのだ。ごく普通の暮らしをしている人にとって、音楽といえばAKB48K-POPに遠くおよばないのだ。

 ところで、毎月数多くの種類が発売されているボカロCDだが、一体どのようなチャネルを通して、消費者に渡っているのだろう。ネット通販やサブカル系専門ショップが中心なのだろうか。その辺りは私も調べようがないので、放っておく。



 今一度、初音ミクとボカロの区別を、明確にしておきたい。
 上記の論説に、違和感を覚える方もいるだろう。いや、ボカロはもうちょい人気があるんじゃね? と。
 残念ながら、それはボカロの知名度ではない。『初音ミク』の知名度に過ぎない。
 もっと言うと、()セガが生み出した『初音ミク』の知名度に過ぎない。
2012712日現在、『初音ミク』とGoogleで検索すると、初音ミク -Project DIVA –のサイトがトップに上がる。Google ChromeCMを見て、創作意欲を湧き立てられCM通りに意気揚々と検索ボタンをクリックすると、トップには、創作ではなく消費を促すサイトが現れるとは、なんとも皮肉なものだ。
 ところで『初音ミク』の突出した知名度は、偶然の産物なのだろうか。私は必然だと考えている。ボカロにおける初音ミクの抽出は、生産・販売・消費の流れを、とても円滑にした。
 作り手にとっては、初音ミクというシンボルがあったほうが、非常に簡単に認知されるメリットがある。買い手にとっては、初音ミクというキャラクターがあったほうが、コンテンツにアクセスする手間が省け、また消費する楽しみも味わえる。販売に至っては言わずもかな、キャラクターがあったほうがお金を動かしやすい。
 その結果が、いまなのだ。ボカロクラスタは、ボカロの魅力を伝えるのに緩慢になりすぎた。例えば、「ミクさんに唱ってもらいました」なんて一文がその最たる例だ。もはや作り手は、自分の売り出しを完全放棄している。ボカロの魅力を伝えるときに、初音ミクという単語を使わないで、紹介できるだろうか(俺にはたぶん無理だろうなぁ)。
 ボカロ好きにも色々なクラスタがある。そんな、てんでバラバラな趣味を持った人たちが、自分の主張を正確に伝えることを怠り、安易に初音ミクというキャラクターを使い宣伝しまくった結果、昨今の「初音ミクって知っているけれど、なんだかよくわからない」という状況ができてしまった。

『初音ミク』は、ボカロ界隈にとって、知名度が上がれば上がるほど都合の良いキャラクター「だった」。昨今、初音ミクとボカロの乖離を嘆く人たちも少なくないが、その神輿を担いできたのは、ボカロに関わる全員だったはずだ。
 だが、個人的には、乖離しすぎてしまった感がある。ボーマスで極小サークルのCD-R(プレスされたCDですらない)を買ってきて越に入るボカロ廃と、ミクパや感謝祭で緑色のサイリウムを必至に振り回すミク廃が、とても同じ人には見えない。幸いにも私は、両者の集団に接する機会があったが、「あぁ、水と油だよなぁ」と、なんとも芸の無い言葉が浮かんできた。

 ()セガが生み出した『初音ミク』は、ボカロファンにとって甘い蜜だったというわけだ。DTMソフトであるボカロの魅力をチンタラ伝えるよりも、YouTubeを開きミクの日感謝祭の映像を見せたほうが、5秒で相手に凄さ伝わる。
 だが、何度も言うが、それはボカロじゃない。『初音ミク』だ。その結果が、Google検索のトップページなのだ。


 先ほど、ボカロ経済はお金が動かないと述べた。ただ、お金はたしかに動いていないが、人は間違いなくそれ以上動いている。
 私は経済学は門外漢なので、専門的なことを論じることなど出来ないので許して欲しい。
 一般的な音楽の楽しみ方というのは、テレビやラジオ、雑誌を通して様々な楽曲がベルトコンベア式に流れてきて、受け手もその溢れるコンテンツから好きなのをピックアップし、気に入ればCDショップに行くというスタイルだ。そしてその対価をCD代として現金を支払う。
 この過程で、CDを買った人は、特に何も行動していない。音楽は、生産者側から勝手に提供される。
 さて、ボカロ楽曲で良曲に出会いたい時、あなたはどうするだろう。
 まず、ニコニコ動画を立ち上げるだろう。そして、お気に入りの楽曲に付いているタグから関連検索し、「もっと評価されるべき」タグなんかも引っ張ってきたりして、ひたすら検索・検索を繰り返すうち、ようやく良曲に辿り着くことだろう。その間あなたは、数時間無駄に過ごしたことになる。
『俺がニコ動で過ごす時間は無駄じゃないよ! 俺は楽しんでるよ!』と思うかもしれない。だが、それは一般論じゃない。一般人にとって、ボカロ特有のキンキン声を、何曲も何曲も数時間も聞く作業は、労働に等しい。
 商業CDでは、お金さえ払えば一定のクオリティを提示してくれる。ボカロ楽曲はお金を支払う代わりに、こちらが労働する必要がある。両者の時間単価は、等価なのだ。
 当然ながら、前者はお金が実際に動くので記録に残る。後者はどうだろう。あなたがニコ動で過ごした数時間は、記録として何も残らない。
 そこが、ボカロの見えない経済なのだ。




 個人的には、ボカロの商業CDは、門戸を広げるものとして大変評価している。だが、現実問題売れていない。そこには、ボカロ楽曲が無料で手に入るという誤った認識が蔓延っていることに起因すると思う。
 私達ボカロ廃は、ボカロ楽曲はとてもフリーな空間で、自分の好きな楽曲を好きなだけ、無料で聞くことが出来る、とても素晴らしいものだと説いて回る。
 だが、ボカロに興味のない人にしてみれば、それが出来ないのだ。ボカロやニコニコ動画に興味のない人にとって、あのインターフェイスを使い、自分のお気に入りの楽曲を見つけ出す行為というのはある種の専門スキルが必要であり、時間を費やすという労働が必要なのだ。

 そこに、ボカロ廃と一般人の、大きな隔たりがある。
ボカロ廃は、一般人に対し、無償で素晴らしい楽曲にあたかも簡単にアクセスできるように説く。そして一般人は、その言葉を信じ、良曲にアクセスできず表層だけを見て倦厭してしまう。
対して一般人は、ボカロ廃に対し、ボカロなんて全然流行ってないじゃんと説く。実際にはお金が動いていないだけで、相当な時間単価が発生している。

 だから、もし一般人にボカロを薦めるのだとしたら『何時間も掛けて自力で発見するか、素直にお金を払って商業CDでも買うといいよ』という薦め方が正しい。酷だとは思うが。


 ボカロブームの影で、いちばん得をしたのは誰なのだろう。
 私は、表現者(よく言えばアーティスト、悪く言えば自己主張の激しいオナニスト)だと考えている。
 ボカロには、コミュニケーションツールという魅力がある。表現者にとってそれは、非常に魅力的だ。何故ならば、受け手側は、コンテンツの検索という労働を無償で行なってくれるからだ。現ナマは手に入らないだろうが、受け手側の見えない労働により、名誉や名声が次々と貢がれてくるのだ。ボカロPは、聴き専にもっと敬意を払うべきだよね。冗談です。はい。

 ボカロがコミュニケーションツールだという考えは、初音ミク(この場合はボカロではない)ブームの真実を、なぜ誰も語ることが出来ないかという答えにも繋がる。
 端的に言うと、初音ミクそのものに魅力などないのだ。
 インターネットを想像すると分かりやすい。インターネットはただのツールで、それ自体は魅力あるコンテンツではない。インターネットを通してつながり会える向こう側に、魅力があるのだ。
 初音ミクは、確かに語りやすい。分かりやすい。認知しやすい。だからボカロシーンについて評論する雑誌には、須く初音ミクを載せなければならないといった事態にまで陥ってしまった。
 だが、ボカロについて語るとき、いつまでも初音ミクというあぐらにかいていたら、何時まで経っても理解されないままだ。だから我々は、もっと面倒臭がってミクロを語らなければならないのだ。


 あなたは、ミクの日感謝祭で緑色のサイリウムを振り回す葱人と、ボーマスやM3で同人CDを買い漁る酔狂と、どちらがボカロ廃だと考えるだろうか。もちろん両方参加しているという人もいるだろうが、それは全体から見れば少数にすぎない。
 前者は、実経済を動かしている先鋒だ。初音ミクという分かりやすいキャラクターに熱狂し、初音ミクの魅力を世間に伝える伝道師でもある。だが、彼らの行動ではボカロの真意は語れない。
 後者は、実経済は動かさない。何しろお金を落とさない。主にネットや即売会に姿を表し、時間を費やし生産し、時間を費やし消費していく。その労働がもたらす表現物は眼を見張るものがあるが、なにぶん表から見る限りは何をしているのかさっぱりわからない。時たま出てくる素晴らしい作品が世間の目に触れ、なんか凄い文化があるらしいぞ、とぼんやりと認知される。


 この論文の根底は、私自身が、社内でボカロCD専門ショップを開いたらどうだろうと、事業公募に特攻しようと本気で考えた事柄を起因としている。
 みんな『初音ミク』だけは知っている。でも、ボカロ楽曲そのものを知っている人は少ない。なぜなら、前記でも述べたが、ボカロ楽曲にアクセスするのはそれ相応のスキルと時間が掛かるから。
 商業CDはすでに様々な企業がやり尽くしてしまった感がある。ならば、実店舗において、個々人に合う楽曲出会いのお手伝いをしてあげれば、そこに勝算があるのではないか。
 その場所に行けば、楽曲知識がゼロでも、自分の好きな音楽と巡り合える。紹介文を作り、視聴コーナーを充実させ、ジャンルごとにオススメをピックアップする。良曲探しの代行だ。
 ちなみに、現時点でボカロCD専門店というのを、私は聞いたことがない。精々が同人ショップのいちコーナーで、細々と肩身狭く置かれているのみだ。その上、ただ単に並べてあるだけで、一見さんには何を買えばいいのかすらわからない状態のお店が多い。
 だから私は、やってみたかった。その場所に行けば、一定のクオリティを持った、自分の好みのボカロ曲に出会える空間を。


 だが、今となっては、ボカロ専門店なんて儲からないことはよく分かった。
 ボカロの知名度は、目に見えない労働者たちの、必至のステマにすぎないのだから。