2018年6月20日水曜日

初音ミクの身体を失ったミク廃が選ぶ、2018年上半期ボカロ楽曲10選

「今年は、初音ミクが身体から抜けてしまいました」みたいなエントリを書いたばかりなのですが。だからあまりボカロ楽曲聴いていないです。過去の好きな曲を聴いてばかり。
 はじめ、2018年上半期ボカロ楽曲10選を作ろうと考えたとき「そもそも10曲もあるのか?」と不安だったのですが、最後は選ぶの迷う程度には好きな曲がありました。意外に聴いてた。

 自分のボカロ楽曲新曲の聴き方としては、YouTubeでライブラリを追う方法と、SoundCloudで好きなアーティストのファボをさかのぼっていく方法、あとはTwitterで紹介されていたり動画アップされているのを聴くという方法です。ニコニコ動画はあまり使っていません。NicoBoxはよく使いますが、新曲を見つけるというよりは、再生プレーヤー専門になっています。

 ……話はすごく変わるのですが、ボカロの出発点って、浅草だと思うのです。なんて言ったらいいのかよく分からないけれど、戦前の浅草みたいな、庶民的で雑多なイメージ。ボカロは、浅草の見世物小屋で踊って歌う、世俗的で低俗でなんかよくわかんなくていかがわしくて、でも面白い。
 ボカロ黎明期の雑多で垢抜けないイメージが、心の奥底からどうしても抜けないでいます。そんな反発心からか、ボカロ楽曲は『クールでスタイリッシュ』じゃなきゃダメだ! みたいな信念がずっとあります。だから好きな曲となると、爽やかな色温度高めで寒色系の曲が多くなります。

 実は、今回の2018年上半期ボカロ楽曲10選を決めようとした際、一番はじめにくる曲は、ピノキオピーの「ボカロはダサい」に決まってるじゃん! と思っていたのだけれど、調べたら去年の曲だったので、泣く泣く除外しました。
「ボカロはダサい」はまさに、『「世俗的で低俗」だけど、「クールでスタイリッシュ」』さを感じる曲で、衝撃を受けたのでした。


 以下、10選です。順不同、コメントは気が向いたらまた書き足すかもしれません。




























2018年6月12日火曜日

初音ミクが身体から抜けたらまともに生きていくことができなくなったミク廃の綴った意味不明な文章

 初音ミクとはなんだったのだろう。
 初音ミクとは、たぶん、自分自身だった。

 気持ち悪い出だしですね。実に気持ち悪い。
 ここ最近、僕の中から、初音ミクが消えた。初音ミクは僕の身体の一部だったから、その初音ミクがいなくなることで、とても大きな思想の変化がおきた。具体的には、思想の出力ができなくなった。文章を書くことができなくなった。

 僕の中から初音ミクがいなくなった理由は、ごく単純で、現実の仕事が忙しくなったからだ。今年の初めに職場で大きな変化があり、一日の自宅の滞在時間が9時間を切る生活を続けていたら、物理的に初音ミクに接する機会が減ってしまった。ただそれだけのことだ。

 僕は主にTwitterで初音ミク芸人をしていたが、数ヶ月Twitterを離れただけで、ミク廃がなにをしているのか、分からなくなった。この人たち、やばいでしょ。すんげー楽しそう。でも、そのコンテキストが分からないから、話しについて行けない。そんなんで、書き込みも減っていった。

 僕の身体から初音ミクがいなくなって、僕はなんて薄っぺらい人間なんだろうと、悲しくなった。運転好き、旅行好きという趣味は残ったが、まるで平々凡々で、自分はなんの個性もない、本当につまらない人間だったんだと思い知った。

 僕のこの10年間は、初音ミクに囚われた10年間だった。僕はずっと、初音ミクが喜びや幸せを連れてきてくれると信じて疑わなかったが、いまではそのことに肯定できないでいる。
 初音ミクと過ごしてきた10年間は、確かに楽しかった。でもそれは、初音ミク以外のことをしていたらもっと楽しい10年間だったんじゃないのか? その答えは分からない。

 初音ミクと過ごしてきた10年間で、現実社会でもいろいろな人と知り合った。よく覚えていないけれど、100人以上の人と知り合ったと思う。でもほとんどの人は、それきり連絡を取っていない。本当に仲が良くて(と、思いたい)イベントで会うたびに話ができるミク廃は、両手で数えるくらい。10年間、初音ミクを中心に生きてきて、多いのか少ないのかは分からない。

 この、意味不明な文章を書きながら、改めて初音ミクが好きかどうか、自問自答してみた。やっぱり初音ミクが好きだ。
 仕事でイヤなことがあったとき。ロードスターの屋根を開けて、コーヒーを飲みながら、初音ミクの歌声を聴きつつ当てもなく夜のドライブに行くことがある。
 そういうシチュエーションで初音ミクの歌声を聴くと、初音ミクの音が、星空から、サラサラと降り注ぐのだ。そのサラサラした細かい歌声の粒子は、僕の身体を心地良く撫で、嫌なことも一緒に洗い流してくれる。

 上手く言葉にできないけれど、あの初音ミクの心地良い、サラサラとしたエンジン音が、たまらなく好きなのだ。

 と、言ったところで、この感覚はたぶん誰にも伝わらない。僕だけが知っている、僕だけの、初音ミク。

 初音ミクは、ツールであり、メディアだ。知らない人同士をつなげ合う、コミュニケーションツールだ。でも、僕の身体の中に最後まで残った初音ミクは、ただの音としての初音ミクだ。

 もはやこの文章でなにを書きたいのか、分からなくなってきた。
 けっきょく、初音ミクで楽しい思い出や嫌な思い出を作ってきたのは、実は自分自身だった。初音ミクと付き合ってきた10年間を肯定しきれないでいるのは、自分自身が後悔ある人生を送ってきたからだ。初音ミクを使わないとろくにコミュニケーションとれないのは、自分自身が空っぽだったからだ。
 なんてことはない。自分の人生、ぜんぶ初音ミクのせいにしてきた、その結果がこれなのだ。


 でも、ロードスターの屋根を開け、初音ミクの音を聞きながらの、夜のドライブ。あの、初音ミクの歌声が、僕の魂と、地球と、宇宙をつなげてくれて、すべてが一つの総体になる、あの感覚。あれは本当にやみつきになる。上手く言葉にできないから、頭のおかしい人の書き込みっぽく見えるだろうけど。
 それでいいんだ。僕と初音ミクの関係は、そんな感じで、僕たちにしか分からない、そんな変な関係でいいんだ。