2015年3月11日水曜日

2011年3月11日の、あの日。

 2008年当時の、浜岡原子力発電所の写真です。東日本大震災が起きた2011年3月11日、僕はこの写真に写っている場所に、住んでいました。






 4年前の2011年3月11日。東日本大震災が発生しました。
 デリケートで現在進行中の問題はあまり語りたくないのですが、自分の記憶を風化させないためにも、書き残します。

 震災の2日前。2011年3月9日。私はお台場にいました。初音ミクのライブイベントに参加するためです。イベント開始時間まで時間を持て余していた私は、日本科学未来館という施設におりました。そこで、ゆらゆらとゆっくり揺れる、気味の悪い地震に遭遇しました。明らかに、震源が遠くて規模の大きい地震と分かるもの。日本科学未来館内でも大きな揺れに見舞われ、施設内にいた人がざわついていたのを覚えています。

 そして2日後、2011年3月11日14時46分。私は予約した病院へ向かうため、海沿いのバイパスを車で走っていました。見通しのよい直線道路に出た時、車が左右に揺れたので「今日はずいぶんと風が強いなぁ」と思いながら流していました。ふと、バイパスと平行する東海道新幹線の高架を見ると、新幹線が停止しているのが見えました。そのときはなにも疑問に思わず、強風で速度制限でもかかっているのだろうと思っていました。

 目的地についたものの、病院の予約時間まではまだ時間がある。ということで、近くのカラオケボックスで時間を潰すことに。カラオケボックスの受付で住所を書く際、茨城の実家の住所を書いたところ、受付のお姉さんが興奮気味で「地震大丈夫でしたか!?」と聞いてきました。
 はぁ? 地震? そういえば一昨日、お台場で少し大きめの地震があったっけ。「一昨日の地震でしたら、大したことなかったですよ」とのんびり答えた私に、受付のお姉さんは畳み掛けてきます。「いまですよ! いま!」そう言ってお姉さんは、持っていた携帯電話を差し出してきました。そこには『震源地「三陸沖・三陸沖・茨城県沖・三陸沖・茨城県沖」』と、ズラリと並んだ地震速報が表示されていました。

 その瞬間、すべてのパーツが繋がりました。不自然な車の揺れ、停止していた東海道新幹線、2日前の大きな地震(当時から前震の概念は知っていたので、余計に)。いや、待てよ。震源が東北なのに、東海地方であんなに揺れていたなんて、これは尋常では無いはず。と言うか、実家は大丈夫なのだろうか?

 一瞬でパニックになりました。カラオケ店を飛び出て、街中を意味もなく走り回りました。とにかくテレビを見たかったので、テレビを探して走り回りましたが、そんなに都合よく街頭テレビなんてある訳ありません。3分ほど走り回ったあと、自分の携帯電話にワンセグ機能が付いているのを思い出し、携帯電話でNHKニュースを見始めました。ちょうど地震直後で、まだ津波も到達していない頃だったので、特に大きな被害も伝えられていませんでした。思い出したように実家にも電話をしてみましたが、あっけなく繋がり、特に大きな被害はなかったということで一先ず安心しました。
 余談となりますが、親が「特に大きな被害はなかった」と伝えたのは、私に心配をかけたくなかったためで、実際には一部損壊の被害を受けておりました。よくわからないところで強がる親ですw

 その後、何事も無くカラオケ店に戻り、一人ボカカラ大会を開催し、病院へ行き、家へ戻ることにしました。帰宅中、東京に住む友達から電話があり、興奮気味に「新宿から八王子まで歩いて帰ってる」と伝えてきました。都心の公共交通機関がすべて停止し、この世の終わりみたいな混乱状態に陥っていると、お前がいちばん混乱してるんじゃないですかと突っ込みたくなるようなテンションの電話でした。
 そんなに被害が拡大しているのかー、と、再びワンセグでNHKを確認すると、例の宮城県名取市沿岸の津波映像が目に飛び込んできました。その横には、日本列島をすべて囲うように発令された、津波警報のテロップ。
 そこで再びパニック状態に。というのも、当時住んでいた静岡の住宅が、せいぜい海抜10メートルくらいしかなかったので、津波に飲まれる! と本気で心配しました。
 その後しばらく内陸部に車を止め時間を潰し、どうやら静岡まではそこまで大きな津波は来ないだろうと判断。自宅付近の道路が津波警報で通行止めになっていたので、回り道をして帰宅しました。


 自宅に戻って、テレビを付けて、ネットに繋いで、次々と入ってくる情報。でも、個人的には少し安心しておりました。家族の安否は大丈夫だし、家も壊れてないとのことだし(実際は壊れてましたが)、そして何より、僕が住んでいる場所のすぐ近くには、浜岡原発がある!

 そう。なんで僕が、こんなに原発の目と鼻の先に住んでいたかというと、原発こそ絶対安心、人類の総叡智が注ぎ込まれたセーフティーゾーンだと思っていたからです。原発があるなら、統計的に自然災害は少ないだろう。なにかあれば、原発に走って逃げ込めば、物資とかなんでも揃っているだろう。そう思っていたのです。

 だから、翌12日の福島第一原子力発電所の1号機爆発の映像は、衝撃をもって、呆然とテレビを見つめるしかできませんでした。あぁ、日本という国は、これで終わるんだな。いまから日本国民の大移動が始まるのだろうか。いまのうちに西へと逃げたほうがよいのだろうか。車にガソリンどれくらい入ってたっけ。そんなことを思っていました。
 当時に見れば、一般市民としては原発に対する知識はあったほうだと思います。原子力発電所のある程度の構造や、分厚いコンクリート製の外壁の大きさ・厚みなども知っていました。過去に浜岡原子力館で、コンクリート外壁の分厚さを眺めながら、「こんなに頑丈ならば、飛行機突っ込んでも壊れねーな」とか思っていたほどです。

 それが、吹き飛んだので、終わったと思いました。


 後にも先にも、あの衝撃は、味わったことがありません。所詮自分は、直接の被害を被っていない、単なる傍観者です。だから、衝撃を受けたというと実際に被害に合われている方に反感を買いそうなのですが、僕の中では重大な出来事でした。


 震災は、傍観者の僕にも、色々と影響を残していきました。
 実家が被災し、罹災証明書も発行され、放射能も降り注いだのに、茨城というだけで被災地扱いされなかったり。また、浜岡の街には、福島からの被災者が移り住んできました。少しだけ接する機会があったのですが、疲れ果て目に生気のない様子に、複雑な思いをいだきました。

 その後の転勤で、浜岡の地を離れることになった時。もちろん寂しさもありましたが、心の奥底で、ホッとしました。これでやっと、原発から離れられると。その頃の浜岡の街は、防護壁の工事で、メインの国道は常に巨大ダンプカーで埋め尽くされておりました。



 思い出話は、これで終わりです。ここからは、いま思っていること。
 去年の終わり、国道6号線が全線開通しました。いてもたってもいられなくなり、原発周辺を含めて、通ってきました。


 そして、その爪痕の深さに、言葉を失いました。
 ここまで広範囲に土地が失われているとは、思ってもみませんでした。いや、頭のなかの地図上ではもちろん分かっていたのですが、実際に行ってみると、その広大さに慄きました。

 土地や建物、人の取り巻く居住空間というのは、その人の人格を形成する重要なパーツだと思っています。空間環境が人の心を形成するのではなく、空間環境そのものが『人の心』なのです。
 人の思考というのは、身体の五感から得られる情報を処理して、もういちど身体へフィードバックする過程で発生します。五感で得られる情報の中とは、言い換えれば外部環境のことです。いつも見ている景色、土地、建物、構造物、すべてが人の心の一部なのです。

 土地を奪われるということは、たとえば、人の脳の一部を切り取るのと同等の影響をもたらすと言っても過言ではないと思います。いままで思考過程の一部に使っていた入力情報がなくなれば、その人の人格が変わってしまってもおかしくありません。
 原発がどうのこうのとか、そういうことはなにも言いたくありません。ただ、広大な土地が失われ、一体どれだけの人が過酷な試練を受けているのだろうと思うと、名状しがたい気分になるのも事実です。

 もちろん、原発被害で土地を失われた人だけでなく、津波で失われた方も同様に。
 個人的に思うところは、津波で失われた街が改造されていくさまを、地元の人はどういう思いで眺めているのだろうということ。たとえば、陸前高田市の、ベルトコンベアで覆われた街。過去との決別という思いがあればいいのですが、身体を切り刻まれて改造されているようにも見えます。もちろん部外者の私が発言していい問題でもありません。



 あの日から、4年です。あの震災の影響は、僕の心にいろいろな変化を与えました。一方で、あの震災以降は『日本』というなにかが、大きく変容するのかなと思っていたのですが、意外になにも変わりませんでした。
 いつものように、推敲を一切せずに保存します。この文章をいつか読み返して、自分の心の変容に気がつくように。

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