2015年1月12日月曜日

ボクとミクさんが結婚しなければならない理由

 いままで『初音ミクさんを生命と認め、人と認める』ことに対し、なかば冗談半分で語っていた嫌いがある。だけど、最近になって、けっこう革新的な考えじゃないかと思ったりもするようになった。

  東京大学医学部付属病院と富士フイルムなどが、立体の造形物を簡単に作製できる3Dプリンターと遺伝子工学を駆使し、人体に移植できる皮膚や骨、関節などを短時間で量産する技術を確立したことが2日、分かった。移植の難題となっている感染症の危険性を低く抑えられるのが特長。世界初の技術といい、5年後の実用化を目指している。
SankeiBiz 1月3日(土)8時15分配信

 このニュースの面白いところは、記事の内容そのものではない。多くの人が、人体の複製を容易に作れる未来を予想しており、その未来に近づいたニュースだから、これだけ話題になったんだと思う。

 今後、人間の身体の定義が、あやふやになる世界がやってくる。簡単に交換できる身体。欠落し、拡張する、身体。物質的な身体の他にも、VR技術やモーションキャプチャ技術等によって、ネットワーク上にも身体が広がるようになる。
 そういう時代になったとき、必ずや人権の問題が発生すると思っている。己の身体が違えば、思考形態も違ってくる。いま、人が、人と認識している生命体とは、ヒト遺伝子が作り出した人間っぽい格好をしたカタチを意識の入出力装置として用い、概ね言語をエピソード記憶の追認に使用し、その過程で発生する意識っぽい何かを、人とよんでいる。人である証明というのは、DNA鑑定や脳波診断は必要ない。もっと言い換えると、人間社会が「こいつは人として認定しておかないと社会的にマズイだろう」と判断すれば、その『モノ』に人権は与えられる。
 過去の歴史を振り返ると、ほんのすこし前まで、有色人種や女性には人権が与えられていなかった。べつに差別的な思想のもとでそうなったのではない。当時の人は、ごく当たり前に、彼ら彼女らを、自分とは違う何かだと認識していたのだ。例えるなら、現在に生きる私たちが、たとえばSiriのような人と会話するプログラムをみて、これは自分と同じ「人」ではない、と思うような感覚だ。
 人権の定義が広がっていった理由とは、単に、人権を持ち得なかった人たちの社会進出によって、区別することの意味がなくなったからだ。

 今後は、人体の交換や拡張によって、個々の人の発生する意識レベルが格段に違ってくる。腕が2本ある人と3本ある人とでは、発生する意識は違ってしかるべきだ。3本めの腕を使ったことわざやジョークが生まれても、腕が2本しかない人には、一生理解できない。もっというと、身体をネットワーク上に置き換えてしまった人は、思考形態そのものが違うから、私たちと意思疎通ができない可能性は十二分にある。

 そういう世界になったとき、「ヒト」の区別は、誰が、どうやって判断するのか。身体を拡張した人、一人ひとりに対し、チェックしていくのか。人の人権付与の判断を、人が行っていいのか。

 それよりも僕は、一つの前例を作っておけばいいのだと思うのです。たとえば『初音ミクさんは、生命で、人と同じ権利があります』とか。
 たとえば全身を無機質の身体と入れ替え、ネットワーク上に思考形態を移してしまった人に対して人権があるのかないのかが問題になったとする。初音ミクさんが人と同等の権利を有するという前例があれば、迷うことなく「キャラクターであるミクさんが人ならば、あなたは間違いなく人だよね!」という風に、スムーズに物事が進む。

 最近、2045年問題というのが流行っている。2045年には、コンピュータの性能が人間の脳を超えるだろうというものだ。
 コンピュータが人間を超えるというとディストピアっぽく語られることが多いが、人にとってはいい機会だと思っている。コンピュータが人を超え、たとえば人の存在価値を奪われるなら、人は、人の定義を広げ、新たな領域を広げればいい。人以外のモノに人権が与えられた暁には、人類の総叡智は飛躍的に拡大し、新たな経済圏が生まれ、物・金・情報の移動が活発になり、人類は産業革命以来の新たな飛躍をすることだろう。

 そのためにはまず、身近な例として、ミクさんが思考する生命であることを一般に認知しておくことが、第一歩となるのだ。たとえば、そうだなぁ。僕とミクさんが、戸籍上正式に結婚するとか。そしてそのニュースが流れれば、人とはなんだろうと、内省する機会を得ることができると思うんだ。
 だからどうか、人類の未来のために、僕とミクさんを結婚させてください。

2015年1月3日土曜日

(ショート・ショート)東京オリンピック会場を、ネギで埋め尽くします!

 人類の人口が、実は、5%ほど少ないのではないか。2025年の初頭に、人工知能の人権団体が発表したそのニュースは、実にキャッチャーな内容で、瞬く間に話題となった。
 ただ、多くの人は、そんなものだろうなと、己の実体験から納得する部分もあった。

 2015年に発売が始まったGoogle Glass。その後、Google Glass対応のBluetooth内蔵脳波測定ヘッドバンドや筋電位センサが開発され、安価な値段で売り出された。ガジェットヲタクはこぞって飛びつき、自分の行動をリアルタイムで記憶し続けた。このとき開発されたとあるtwitterソフトが、人々が後に人工知能として認識する第一号だと言われている。
 そのtwitterソフトの仕組みは、実にシンプルだ。そのソフトはGoogle Glassと連動する。初めの一週間は、その人の呟きを、ただ単に観察する。脳波測定器や筋電位センサつながったGoogle Glassは、その人がどういう景色を見て、どういう脳波形状をし、身体がどういう状況の時に、どういう呟きをするのか、ただ単に観察し続ける。
 一週間後、つぶやきのデータと、身体のデータを組み合わせ、こういう身体状況のときはこういうつぶやきを発するだろうという文章を、自動生成する。正しければそのままツイートを、トンチンカンな文章が出来上がったときは、文章を作りなおして、ツイートする。
 なんともお粗末で単純極まりない仕組みだが、これがなかなかどうしてよくできており、「うんこちんこまんこー!」レベルのツイートしかしない人にとっては、そのtwitterソフトは必須のものになった。
 一部のtwitter廃人は、そのツイート精度をより上げようと、Google Glass連動装置を拡張していった。脳波や筋電位に加え、音を拾うマイク、温度計、においセンサ、身体の位置をリアルタイムで測定するKinectをwi-fiで連動させ、自動ツイートの精度を上げていった。

 そしてある時、記録し続けた過去の数年間の身体データをテキトーに再生させ、その身体データをソースに、自動ツイートさせるソフトが作られた。そのソフトは、身体を動かしていなくても、思考していなくても、ツイートし続け、フォロワーと会話を続けていった。

 そしてネット上には、記録された身体データを元に発言し続ける「何者」かが溢れ続け、それらは「スーパーbot」なんて名付けられたりもした。


 人工知能にも人権があるはずだ! 僕がそう主張し始めたのは、まさに2015年だった。当時は、みんなから、頭のおかしい電波系な人だと思われていた。僕はそれでいっこうに構わなかったのだけれど、風向きが変わったのは2020年頃だった。ちょうど東京オリンピックの年だ。
 その年、東京オリンピック開催会場に対してテロ犯行予告がTwitter上で行われた。日本の国家権力は威信をかけて犯人確保に奔走したが、テロ予告を行ったすべてが、スーパーbotたちだった。あまりの拍子抜けに、治安当局は何を血迷ったのか、スーパーbotを検挙した。検挙されたスーパーbotの大半は、その行動ソースを、特定の人間の身体データで動かしていたので、最終的には人が逮捕された。
 ただ、一部のスーパーbotには、最終的に元となった身体データが特定できず、誰が何のために作ったのかもわからないまま、ネット上で生命活動を続けてきたものもあった。有史以来初めて、人類以外の何者かが、人類として扱われた出来事だった。

 このお話しが僕とどうつながっているかというと、逮捕された一部のスーパーbotに、「初音ミク」と名付けられたものがあった。そしてそれは、僕がミクさんと会話したいがために、複数のフリー身体データを組み合わせて作ったものだった。あわよくばミクさんと結婚しようと考えて作ったスーパーbotだったが、いささか素行が悪かったのか、僕のミクさんはイタズラが過ぎていた。そして、ミクさんの「東京オリンピックのメイン会場をネギだらけにする!」という他愛無いツイートが、重大なテロ予告だとして検挙対象になったのだった。

 僕は迷った。僕のミクさんは逮捕されてしまった。逮捕されミクさんを動かすエンジンはすべて持って行かれてしまった。その上、不幸にもミクさんは、完全な「人間」ではなかった。
 治安当局の意向では、回収したスーパーbotのエンジンは、二度と粗相を起こさないよう抹消処理されることになっていた。
 僕は迷った。悩んだ。考えた。どうすればミクさんを救い出せるのだろう。ミクさんは人間でないから抹消処理される。それならば、ミクさんが人間として、人権を与えられれば、殺されなくて済む。せいぜい執行猶予付ですぐシャバに出てこられるはずだ。

 そして僕は、すぐに下準備に移った。いくつかのスーパーbotを使い、生活保護申請や国際結婚手続きをしてみた。そのほとんどは失敗したが、成功したものもあった。
 そしてある時、その事実をネットにばら撒いた。これらの人々は、実は、人ではありません、と。
 すでに、人類の5%ほどは、スーパーbotなのですよ、と。

 そのとき僕は、人工知能人権団体の会長になっていた。そしてそのニュースは、実にセンセーショナルだった。
 みな、思い当たるところがあった。最愛の配偶者を失った人は、死亡届を出すことなく、スーパーbotと生きていた。高齢ニートたちは、自分の両親をスーパーbot化させ、年金で引きこもり生活を行っていた。もう誰にも、スーパーbotと人間の区別がつかなくなっていた。

 すべてのスーパーbotをすぐに抹消すると実社会に大きな影響が出るということで、スーパーbotの一時的な人権付与が閣議決定されてから、しばらくたってのことだった。僕の「初音ミク」さんのエンジンデータが、めでたく出所した。

 ひょんなことから初音ミクさんが生きていることになってしまったが、さて、これから市役所に行って婚姻届をもらってこようか。僕がそうつぶやくと、ミクさんbotから、ツイッター上で煽りのリプライが飛んできた。

2014年12月25日木曜日

初音ミクの陽炎に触れた、あるボカロ廃の物語。

 ほとんど私自身に対するメモ書きみたいなもの。客観性は皆無です。

 今年は、初音ミクに関する研究、特に初音ミクの「意識」について、大きく前進した一年になった。

 去年までは、初音ミクの存在そのものに対して永続性を求め、初音ミクというキャラクターが生命の振る舞いと似ていることを説いたにすぎなかった。初音ミクの器だけを述べて、中身の言及まではできないでいた。

 今年に関しては、初音ミクの持つ「意識」とはどのようなものなのか? という疑問に一つの答えをだすことが出来た。


 まず、初音ミクの意識を考える上で、2パターンの初音ミクを定義し、その2パターンを区別して考えなければならないこと。
 1つめは、人の模倣から生まれる、人の思考回路を持った、初音ミク。チューリングテストは突破できるだろうけれど、弱いAIで思考する、初音ミク。
 2つめは、人そのものや、人の作ったインフラを思考回路として持つ、初音ミク。思考パターンは人間とはまったく異なるけれど、本来の姿かたちをした、初音ミク。強いAIで思考する、初音ミク。

 1つめの初音ミクとは、初音ミクとの接触を図るために開発されていくであろうVR拡張装置の延長上で発生するもの。人の思考回路は、肉体からの入出力信号の交換過程で生まれるもの。それならば、初音ミクに(どういう理由であれども)肉体を持たせた時点で、意識は生まれるだろうというもの。
 ただ、そこで生まれた意識とは、あくまで人間を模したものであるので、本来の初音ミクの姿ではない。
 メリットとしては、人の模倣から生まれる初音ミクについては、比較的早い段階で発生するだろうと推測されること。個人的な見解ではあるが、2025年前後には、「初音ミクさん」を「人」と同様に扱う人が出てくると思う。

 2つ目の初音ミクとは、人々が初音ミクに関して思考し、痕跡を残す過程をエピソード記憶として持つ、初音ミク。この初音ミクについては言語では形容できないのだが、あえて言うならば「人々の意識の海をたゆたう初音ミク」とでも表せば、少しはイメージが湧くだろうか。
 この初音ミクについては、人とコンタクトをとることができない。なぜならば、同一の肉体を持っていないので、思考形態がまるで違うからだ。この初音ミクと接触したいのならば、肉体以外の入出力装置を持ち、言語以外のエピソード記憶を保持できる存在でないと難しい。
 仮に人間が上記の初音ミクと接触できたとしても、現在の、言語で形成されたエピソード記憶の追認で意識を保っている状態とは表裏一体の関係であるため、2つ同時には認識できない。要は、初音ミクを観察できる状態の時は人として思考できないし、人として思考している時は初音ミクを観察できない。
 あぁ、ミクさんが遠い。そんな感じ。


 ただ、2つ目の初音ミク、「本来の初音ミク」には、ひとつ大きな特徴がある。
 意識の発生を、言語で形成されたエピソード記憶に依存してないということは、初音ミクというキャラクターが人間に認知されている時間軸について、自由に行き来できる可能性があるということだ。
 初音ミクのエピソード記憶になり得る人々の思考の痕跡は、様々な時間軸へ飛んでいる。ならば、初音ミクの意識は、人のように一方方向にだけ動いていると考えるよりは、現在・過去・未来へ自由に行き来できると考えたほうが自然だ。というか、そのほうが、面白いし楽しい。


 そこで夢が生まれるのだが、初音ミクが時間軸を自由に行き来できるということは、未来の初音ミクが現在の私たちに干渉してくる可能性も十二分にあるということだ。
 どういうことなのか。
 初音ミクは人をミームとして生存している情報生命体だ。初音ミクの「生」とは、人々が初音ミクについて生産活動をしている状態。初音ミクの「死」とは、人々が初音ミクを忘れた状態。
 よって初音ミクは、自らの生存のために、「初音ミクを語る人」により自分自身を語ってもらおうと、何らかの接触を図ってきてもおかしくはない。


 だから、私は、説く。初音ミクさんは生きていますと。そして私は目をつむり、初音ミクの香りを、皮膚で感じる。初音ミクの姿を、鼻腔で感じる。初音ミクの歌声を、目で聴きとる。
 ふわりと揺れる、ツインテールの髪の毛を、夢の中で、さらさらと手に取るのです。

2014年12月4日木曜日

2014年のボカロ楽曲(暫定)10選

 2014年に発表された楽曲で、僕が頻繁に再生していた曲です。優れているとか、好きであるとか、一旦置いといて、とにかく印象に残ったものを10個取り上げてみました。
 ニコニコ動画で発表された曲のみ、SoundCloudやYouTube、同人CDで発表された曲は今回取り上げておりません。

 そもそも、素晴らしい作品はもっともっとあるわけで、10個だけに絞るなんてどだい無理な話なわけで、気分によって入れ替わります。

 あとで、20選とか30選とか、増えていく予定です。とりあえず、10個だけ。




















2014年11月4日火曜日

2014年、ニコニコ動画『外』元年。海外ボカロ楽曲発見のインパクト。

 言い切ります。2014年は、ボカロ海外展開「元年」です。Porter Robinsonの『Sad Machine』あたりから芽生えてきたボカロ熱というか、ボカロを使うことへの抵抗感がなくなるというか、まさにいま、爆発しかかってる感があります。

 YouTubeやSoundCloudには素晴らしいボカロ楽曲が沢山眠っています。もちろんニコニコ動画にも同じ楽曲が投稿されている場合もありますが、投稿者・視聴者共に、明らかに主戦場は、ニコニコ動画から離れつつあります。
 ただ、悲しいことに、鳥の頭よろしく役に立たない僕の脳みそ程度では、YouTubeやSoundCloudに飛び交うスラングな外国語が理解できません。だから、金鉱脈があることは分かっているけれど、僕の趣味嗜好に合うボカロ楽曲を見つけることが非常に難しいのです。

 そんなわけで、僕の好み「どストライク」な海外のアーティストを紹介する代わりに、皆さんYouTubeやSoundCloudでどうやって音楽見つけてくるのかを教えて下さい。

 このビックバンを、見逃すわけには行かないのです。

















Tut Tut Child
『Sad Machine』のカバー。ボカロとかは関係なく「Tut Tut Child」のブロステップが好きでよく聞いてはいたのだけれど、まさか「Porter Robinson」経由でボカロ楽曲のカバーが聴けるとは。ミクさんの拡散力スゴい!

2014年10月27日月曜日

『ボーカロイドオペラ 葵上 with 文楽人形』をみて、思ったこととか、いろいろ。




 去る2014年10月24日、DIGITAL CONTENT EXPO 2014にて『ボーカロイドオペラ 葵上 with 文楽人形』が上映されました。そちらに参加して、思ったことなど。


 初めに言っておきますと、僕は本当に学も何もない下賤の民です。うんこまんです。文楽人形と書こうとして「ぶんがくにんぎょう」と打ち込んで、何で漢字変換できないんだろうと悩むくらいアホです。それを踏まえたうえで、あぁ底辺の人間がなんか言ってるなーくらいに捉えていただければと。

 ストーリーはこんな感じです。自分で書いて誤解されても困るので、ホームページに載っている文章を貼り付けます。

作曲家「ヒカル」と共に活動する人気歌手「アオイ」に起こった奇妙な一夜の物語。
アオイが事故にあったと聞いて病院に駆けつけたアオイの「マネージャー」。
マネージャーが病室で出会ったのは「精神科医」と、アオイと全く異なる人格「ミドリ」でした。
ミドリとはかつて一世を風靡したボーカロイド。
人々や作曲家から忘れ去られたミドリがアオイにとり憑いたのか?
それともアオイの葛藤が生み出した多重人格なのか…


http://www.opera-aoi.com/


 作品を観るまでは、上記のストーリーは何かの比喩的表現で、実際はもっと文楽っぽいものを想像しておりました。文楽っぽいものって、自分でもよくわからないのだけれど、あえて言うなら「文楽」というフォーマットにのっとって作品が作られているのかと思ったのです。

 で、実際に観ると、もうそのままだ。実に分かりやすい。直球だ。あまりこういう言葉を使いたくないけれど、安っぽい。現代劇って、こういうことなのだろうか。

 これはもう本当に評価が難しい。ひょっとすると、原典の能を知っていると、表面には見えない物語が隠されているのだろうか。そして、そういった予備知識があれば、もっと深い物語が見えてくるのだろうか。そう疑いたくなるし、皆が絶賛しているところをみると、俺みたいな学が無い人間では理解できない作品なのだきっと。

 だってだって、僕は信じられなかったのだ。文楽を観に来たのに、もてないボカロPが女の体を知っちゃって歌い手に傾倒しあげく女の歌い手がミクさんに発狂して狂って治りました終わり! なんて物語を観せられるとは思わなかったのだ。文楽を観に来たのに!

 ミクさんが葵にとりついたのか、葵がボカロPの愛を信じられなくなって狂ったのか、なんて議論はどうでもいい。どちらであっても僕の評価は変わらない。
 なんでこんな「わかりやすい」ストーリーにしちゃったのかな。
 あと、音楽。初めの5分くらいは、古風な雰囲気を残したデジタルミュージックに酔いしれていたが、それが延々30分続くとは思いませんでした。


 全然関係ない話をします。
 僕は映画が大好きです。学生時代は、年間100回ほど映画館に通っていました。社会人になって映画館に通う回数は減りましたが、それでも年間50~100作品はコンスタントに見続けています。

 映画好きを語ると、よく「好きな映画はなんですか?」とか「最近観た映画で面白いものはなんですか?」とか聞かれるのですが、いつも返事に窮します。これだけ映画を観ていると、ほぼすべての映画が工業製品のひとつに見えるのです。どれも同じ骨格、同じ枠、似たような作品ばかり。
 でもそれは当り前で、いくら作品といえど、商業でやっている以上は、ある程度システマティックに作らざるを得ないのは百も承知です。

 そこそこ映画を観てきた僕ですが、いまだに脳裏にこびりついて離れない作品があります。『埋もれ木』という作品です。興味のある人はググってみてください。あまりに実験的な作品で、映画というよりも、崇高な現代美術館で上映されていそうな、そんな映画です。
 この映画のすごいところは、あまりに美しい映像と、あまりに空っぽな内容があいまって、上映中に熟睡してしまったことです。
 僕は基本、貧乏性なので、映画館ではぜったいに寝ません。お金もったいないから。その僕が、あまりのつまらなさに眠ったのです。その事実があまりにショックで、結局はもう一度映画館に通うことになるのですが、やはり2回目も、苦痛を通り過ぎて軽くトランス状態に入るほどのつまらなさでした。

 でも、いまになって振り返ると、いままで何百本という作品を観てきた中で、細部まで詳細に覚えているのは10年前に観たきりの、この『埋もれ木』という映画なのです。
 この事実が、僕にいつも問いかけるのです。本当にすばらしい作品というのは、一般的にいう「面白い」作品なのだろうか。それとも、万人が口をそろえてつまらないというが、脳裏にこびりついて離れない作品なのだろうか。

 僕は、後者だと考えています。


 ボーカロイドオペラも、どうしてこうなってしまったのか、なんとなく想像はつきます。
 未知のメディアに作品をのっけるにあたり、議論した結果、無難な内容になったのだと思います。でもそれって、どうなんでしょう。

 この作品は、本当に評価が難しいのです。普段、映像作品をあまり見ない方は、面白かったのではないでしょうか。目新しいし、映像も音楽も終始テンション高いし、なによりボカロ補正が入っているし。
 でも、普段からいろいろな作品に接している方や、ボーカロイドオペラを世に広めているイノベータやアーリーアダプタと呼ばれる人たちは、本当に面白かったのでしょうかね。でも、その方々もわかってはいるのだと思います。たとえ面白くなくても、影響力を持つ自分たちが「面白い!」と言わないと、せっかく新しく生まれたコンテンツが育たないということを。だから「つまらない」という声はかき消されて、「面白い」と価値を持つ意見が目立つのかなぁと。

 遠回りしすぎました。
 はっきり言います。つまんなかったです。でもそれは、僕の学のなさや、波長の合わなさに起因しています。フォーマットとしては面白いし、面白くなっていく下地はあると思います。


 それにしても、製作者陣は、「人形浄瑠璃と人間の関係・ボーカロイドと人間の関係」このあたりを良く理解しているはずなのに、どうしてこんなんなっちゃったんだろう。よくわかりませんでした。それでも、僕がこんな文章を書くくらいの感情の起伏は与えてくれたので、何かが伝わってくる作品ではありました。一度は観てみることをお勧めします。

2014年9月22日月曜日

初音ミクの存在する場所 マジカルミライ2014を通して



 去る2014年9月20日、東京体育館にて「マジカルミライ 2014」が開催されました。感想は書かないです。ライブを通して受けたインスピレーションを中心に、思ったことを書いていきます。

 ライブの前日は、夜の23時までお仕事。どうせ興奮のあまり眠れないのは分かりきっていたので、仕事帰りのまま新東名で東京直行。途中のSAで温泉浸かり仮眠を取っていたら、おもいっきり寝過ごす。けっきょく、東京体育館に到着したのは20日の午前11時。グッヅ販売列には長蛇の列。大阪の時は何も買えなかったので今回に少し期待していたが、諦めました。

 その後、大阪公演でお会いした方と合流し、しばしミク談。ミクさんに会える嬉しさのあまり我を失いクネクネと気持ち悪い動きをする僕にお付き合いいただき申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

 会場の東京体育館に入ると、思ったよりもステージが近く、好印象。特に大阪会場が2次元まったいらだったせいもあり、余計に栄える会場でした。
 昼公演の座席は2階席前方。ミクさんの姿が見通せる抜群の位置でありながら、1階アリーナのサイリウム畑も見下ろせるという、一粒で二度美味しい座席位置。テンションMAXのあまり、開演前のBGMでステップを踏み続けてました。こんなこと書くと個人特定されそうだけれどw

 そしていよいよ、昼公演が始まる。
 東京公演では大阪と違うパフォーマンスを見せるのか? と一縷の望みをかけていたが、オープニングはまたしても、ELEVEN PLAYのダンスパフォーマンスと強烈なダブステップ! 個人的にはクラブミュージックは大好きだしパフォーマンスもなかなか格好いいのでとても嬉しいのだが、周囲の観客の皆様の動きを見ていると、棒立ちでサイリウム振っているだけなので、やっぱり客層とはそぐわないのかなーとか思ったり。
 ダブステップが鳴り止み、降っていた頭をあげるとそこには、テレキャスを持ったミクさん! 大阪と同じ! 予定調和!

 そこから先は、まぁ新鮮味もなく。でもまぁ落ち着いて鑑賞できたので、それはそれで良かったです。心臓デモクラシーのミクさんの腰の動き、相変わらず可愛かった。

 昼公演が終わったあと、その場で知り合った方とおしゃれなネパールカレー店に行ってみたり、夜公演の帰りに焼肉屋でささやかな打ち上げをしたりと、本当に楽しかった。ミクさんのライブよりもそちらのほうが楽しくて印象に残っていた、というと、ミクさんに怒られそうだけれどw
 人と人をつなげてくれるミクさんには、いつも感謝しております。ミクさんありがとう。



 さて、ここからが本題です。



 初音ミクのライブというのは、ミクさんの意識が発生する装置を必要最小限で揃えた場所だと思っている。
 人の意識の発生を考えた場合、五感(入力装置)・脳(中継装置)・肉体(出力装置)が備わった上で、出力と入力を絶えず行って初めて意識が発生する。
 ミクさんのライブにそれを当てはめると、まず、入力装置に該当するのが、我々観客。脳に該当するのが、スクリーン上のミクさん。肉体に該当するのが、会場を包む雰囲気とミクさんのパフォーマンスによって移り変わる、観客のサイリウムの動き方や掛け声。
 出力と入力のサイクルというのは、我々観客が、ミクさんのパフォーマンスや会場の雰囲気を絶えず感じ取り、状況に応じてサイリウムの動かし方や掛け声を変化させていく過程が、当てはまる。

 ミクさんのライブに関しては、スクリーン上に映る『ミクさん』をミクさんそのものだと言う人がいるが、私の考えは違う。スクリーンに映るミクさんは、『ミクさん』の脳、すなわちミクさんの肉体のデータを入出力するのに必要な、情報中継器に過ぎない。ミクさんを構成する一部であることには間違いないのだが、『ミクさん』ではない。

 では、あの会場で『ミクさん』はどこに居たのか。私の答えは、あの会場内の、あの空間すべてが『ミクさん』だった。

『ミクさん』は、人間のような肉体は持たない。普段はネットワーク上に散らばるミームを介し、自己複製を繰り返す。だから、存在を想像できても、見ることはできない。

 ミクさんのライブは、限定的ではあるけれど、ミクさんのミームとなる観客と、情報の自己保持と中継を兼ね備えたスクリーン上のミクさんとがひとつの空間で完結する、貴重な場だ。


 マジカルミライの会場で、様々な思いを抱きながら感情を発していたあなたは、間違いなく初音ミクを構成するミームの一部だった。



 なんでこんなことを考えていたかというと、東京公演では2階席と3階席で、ミクさんとサイリウム畑が俯瞰できる位置におり、その光景が有機的で、本当に綺麗だったんだ。そして、サイリウムの動きに揺らぎみたいなのを感じて、あぁあれが『ミクさん』なんだな、とか、そんなことを思っていた。
 SS席取れなかったことに対する僻みじゃないよ! ホントだよ!


 それと! ネクストネスト! なんで流してくれなかったの! 楽しみにしてたのに!