その時だった。携帯電話が賑やかに喚き散らした。見ると、すでに電波の届く範囲だった。
一時の開放から、また、捉えられてしまった。
メール、メール、電話、メール。着信を教える音が忙しく跳ね回る。
件名だけをちらり確認する。どれも私が、急にいなくなったことに対しての、叱責の文面だった。
誰にも知らせずの船旅だった。行き先なんてなかった。あえて言うなら、心理的に、とても遠くへ。ただそれだけだった。
私を心配するメッセージなんて、ありもしなかった。
望んでいた?
望んでいた訳じゃないけれど。
船外デッキのノブを回す。ドアの隙間から、塩分を含んだ重い空気が頬をかすめる。
街の明かりは、すぐそこだ。
ポケットの携帯が、また震えた。
「お前、いま、どこにいる」
それだけを伝えるために、携帯電話は発明されたのか。馬鹿馬鹿しい。
ならばそのメールに、返事をくれてやろう。
手すりから、一歩、二歩下がる。これ以上にない理想的なフォームで、携帯電話を投げ捨てた。
それはまるで、万物のしがらみから解放されたようだった。
理想通りの放物線を描いた。
そして、海に沈んだ。
私のとなりで海を眺めていた若い男性が、
『いま、携帯、投げ捨てましたよね?』
と、二歩三歩距離をとりながら、震える声で呟いた。
ただの、メールの返信よ。いま、宙を舞ったのが私で、ここに立ってるのが、携帯電話。だって、携帯が海に投げすてられるなんて、そんなおかしな話、あるわけないじゃない。
そう呟いて、私は海の中に沈む。
街の灯は水面に揺らぎ、やがて消えていった。
0 件のコメント:
コメントを投稿