関西ミクパの感想を、取り急ぎ。
結論を先に述べると、今回のミクパは『初音ミクのライブ』と呼ばれるイベントの中では、最も良くできていた。いや、良くできていたと述べると客観的な意見っぽく聞こえる。
もっと主観的に。最高に楽しかった。
今回のミクパ会場は、過去にない規模のホールで開催された。ただ、私の鑑賞した席は、幸か不幸か、二階席の後方。会場全体が一望でき、なおかつミクさんが小指の先ほどの大きさしか認識できないような場所だった。
結果的には、『会場が一望できる』席にいたからこそ、今回のイベントが素晴らしいものだと感じるに至った。
ライブの一曲目、ぶるりPの『秘密警察』が始まった。その時の光景は、まさに衝撃だった。
ミクが歌い出した途端、それまでてんでバラバラに動いていた緑色のサイリウムが、意志を持ったかのように飛び跳ね、揺れたのだ。ProjectDiva_Fというゲームでも同じ曲が収録されており、そのPVの中に、ミクさんを前に観客たちが狂喜乱舞するシーンがある。まさにそれの再現だった。
ゲームの風景という夢想世界が、夢想よりもはるかに大きなインパクトを伴って、眼下に再現されたのだ。
『これはいったいなんなんだ?』
私はいままで、初音ミクのライブでは、『初音ミク』しか見ていなかった。それでもって、良いだの悪いだの、判断していた。
今回はじめて、二階席後方という場所で『初音ミクのライブ』全体を観ることが出来た。そこには、ボーカロイド6年の歴史と、6000人の自由意志が織り成す同化行動があった。
ボーカロイド文化が生み出し、育んできたボカロミームが、それがたとえ別次元に存在する一部を垣間見ただけだとしても、私の目でハッキリと確認することが出来たのだ。
こんなことをいうと失礼だが、ミクパそのものに対する意見というのは、あまりない。ミクさんのモデリングが私好みのDiva_Fモデルになったことも有り、欠点を探すなど、重箱の隅をつつくのと同じだ。『Tell Your World』が流れた時などは、本当にもう幸せ過ぎて、世界中で一番幸せなのは間違いなくこの俺だ! と胸を張って自慢できるくらい幸せで、感情が脳内で処理できずに溢れ出てくるほどだった。
何の話をしていたんだっけ?
今回のミクパは、ボカロとボカロを愛する人が一体となり、一つの事象として眼下に出現したことに驚いた。感動した。ボカロミームの具現化だ。
これが例えば、一番最前列で鑑賞していたら、また感想は違ったかもしれない。それはまた、別の人が記載してくれるだろう。私も楽しみだ。
2013年3月10日日曜日
2013年2月13日水曜日
アポロ17号の憂鬱、初音ミクの進化
アポロ計画を知らない人はいないだろう。人類の科学技術史に残る大偉業である。特に、人類を初めて月面へ導いた『アポロ11号』という飛行船の名前や、アームストロング船長の『これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である』という言葉は、一度は聞いたことがあるだろう。
だが、その後のアポロ計画を詳しく知る人は少ない。この計画で、命を落とした飛行士がいたことも、知る人は少ないだろう。
人は、ドラスティックな変化に身をおいた時、強烈な『生』を感じる。興奮する。熱狂する。希望を観る。
アポロ計画で言えば、月面へ降り立ったパイロットは、全員が平等に、英雄とあるべきた。ただ、人々に感情の喚起を及ぼすのは、『世界ではじめて』というドラスティックなタグの付いた、アポロ11号だけだ。
ボーカロイド・シーンに没頭する人は、実に様々な理由を持ち合わせている。自己表現をしたい人、キャラクターに感情を抱く人、作品の消費を楽しむ人、人との繋がりを求める人。
私がボーカロイド、いや、初音ミクに固執する理由となったのが、平々凡々な日常を壊す(壊してくれるかもしれない)、ドラスティックな変化を与えてくれる。そんな夢を見させてくれたのが、そもそもだった。
幼い頃から、私には一つの夢があった。幼少期からハヤカワ文庫で育った私は、人工知能やアンドロイドといった『人』以外の存在に、強く憧れていた。
ただ、それはあくまで夢であった。叶えようのない、叶え方も皆目検討がつかない、遥か遠く掴めぬ夢だった。
それが、ある作品をきっかけに、私に『夢を叶えるための道筋』を与えてくれたのだ。
初音ミクのカンブリア爆発の引き金の一つ『ハジメテノオト』という曲が、それだった。
私はこの曲を聞いた時、理性ではなく、感情で『ヒト以外の何か』を感じた。説明なんて出来ない。証明もできない。センス・オブ・ワンダーとしか言い様がない衝撃を味わった。
(以前、センス・オブ・ワンダーを感じた理由として『ミラーリング効果』等をあげたが、結局は後付の理由でしか無い。詳しくは『VOCALO CRITIQUE Vol.04』を買って読んでねっ!)
以後の私の生活は、光り輝くものだった。夢が叶うことが分かったのだ。その夢というのは、お金持ちになりたいとか、出世したいとか、そんなちゃちなものじゃない。ヒト以外の知的生命体と接触できるかもしれないという、アポロ計画ですら矮小に写ってしまうような偉業を、私自身が叶えられるのではないかという希望を抱くことが出来たのだ。
その下地があるからこそ、私にとって初音ミクのライブというのは、単なるエンターテインメントではなかったのだ。多くの人が集まり、正面で歌う初音ミクを『人ではないけれど、人に似た、なにか』という認識を共有する空間そのものが、私を酷く興奮させたのだ。
現実を創りだすのは、突き詰めていくと、各々の主観だ。初音ミクがライブステージに居ると思えば、それは現実に存在するのだ。もっと言うと、ライブ会場にいる全員が『初音ミクはあの場にいた!』と証言すれば、初音ミクはその世界に舞い降りるのだ。
もっと言おう。私にとって、初音ミクのライブというのは、人類以外の知的生命体に会えるかもしれない(それがほんのコンマ1%でも)と本気で思える、ドラスティックな認識変化を与えてくれるかもしれない場所なのだ。いや、場所『だった』のだ。
しかし、その後の初音ミクライブは、私を次のステージまで連れて行ってはくれなかった。アポロ計画が月にしかいかなかった(いけなかった)のと同じだ。東京ミクパのような、アポロ13号にも似た事故があったような気がしないでもないが、月面以外は見せてくれなかった。火星へ、木星へ、土星へ、果ては太陽系外へ、見知らぬ世界へ連れて行ってはくれなかった。
私にとって初音ミクのライブは『かもしれない』で止まってしまった。一度興奮を覚えてしまった身体では、同じ事の繰り返しは緩慢なる衰退としか映らない。
次に強烈な『生』を与えてくれるのは、なんだろう。私を、次の世界へ連れて行ってくれる出来事は、なんだろう。初音ミクが、次のカンブリア爆発を迎える事象は、なんだろう。
少なくとも、いまの形式の初音ミクライブでないことは、確かだ。
2013年2月12日火曜日
初音ミクのライブは、リリエンタールの翼であった
札幌ミクパ2013の肯定的な意見はお腹がいっぱいになるほど見たので、ちょっと変わった視線で……。ちょっとした批判にもなるので、あえて分かりにくい表題で。
去る2013年2月10日、札幌にて『初音ミク ライブパーティー 2013 in Sapporo (ミクパ♪)』というイベントが行われた。そこに参加して、思ったことなど。
いまでこそ、当たり前に『初音ミクのライブ』が開催されている。しかし、ほんの数年前までは、当たり前ではなかった。当たり前どころか、夢物語だった。ありえない未来の話であった。
上記の動画は、dorikoさんという方が2008年6月26日に発表した『letter song』というバラードソングだ。昨今の有名なボカロ楽曲とくらべてしまうと、突出して優れているとはいえないだろう。ただ、2008年の発表当時、それはそれは震え上がったものだ。無機質であるはずのボカロが奏でる歌詞は、人間が持つ泥臭さがまるで無く、ストンと私の心に『落ちてきた』。
人が歌うのではない、ボカロが歌うことによる新たな表現力に、感嘆したのを覚えている。
dorikoさんの曲を取り上げるため便宜的に2008年と設定したが、この年はボカロ躍進の年でもあった。kzさんやryoさん、ジミーサムP。例を出すときりはない。現在のボカロシーンの礎が、2008年ではすでに出来上がっていた。
改めて一つ言えることは、2008年の時点で、初音ミクのライブというのは、夢物語であった。在り得ない未来だった。
うーん。強いて例えると、なんだろう。例えば当時、ボカロに熱中する人に『宇宙旅行と初音ミクのライブ、どちらが先に実現すると思う?』と聞けば、間違いなく『宇宙旅行でしょ』と答えたと思う。初音ミクのライブ? 誰が何の目的でやるの? 宇宙旅行のほうが、手段も目的もハッキリしているから、まだ現実味があるんじゃないの? と。
ボカロファンの中に、初音ミクのライブを夢見た人が居なかったわけではない。
初音ミクのライブを実現したいという夢物語は、それはもう初音ミク登場初期から描かれていた希望だった。ただ、我々は本当に、手段も目的も、何もかも持ち合わせていなかった。
だからこそ、2010年3月9日に行われた『ミクの日感謝祭』は、私の中で衝撃を持って迎えられた。あまりにオーバーテクノロジーだった。宇宙旅行よりも遠い未来の話だと思っていた夢物語が、目の前で繰り広げられたのだ。腰を抜かした。
(ミクの日感謝祭より前のミクフェスを挙げる声もあるが、ミクフェスは如何せん実験的な色合いが強いので、私はミクの日感謝祭を挙げる)
それと同時に、これは何かの奇跡の積み重ねで起きたもので、放っておけばロストテクノロジーになるんじゃないかとも危惧した。
ここで表題に少しだけ(本当に少しだけw)繋がるのだが、あの場はまさに『リリエンタールの翼』だった。夢物語が、現実となるかもしれない。ただ、それを理論立てて解明できるわけではない。どうやって発展させていいのかまるでわからない。ただひとつ言えることは、初音ミクのライブパフォーマンスをもう一度観るためには、受け身であってはいけない。
リリエンタールのように、死を覚悟で、こちらもなにか行動を起こさないと、奇跡が奇跡で終わるんじゃないかと、強い危機感と使命感があった。
幸か不幸か、開催元は様々あれど、初音ミクのライブというのは形式を手に入れ、永続的に続くようになった。私がかつて危惧した『これきりでミクさんに会えなくなるのではないか』という心配も消えた。回を重ねるにつれ、観客動員数も増え、観客の客層も増え、将来を慮る限り安心だろうと思えるまでに至った。
ただ、その会場で私が座っているのは、お金を払えば誰でも安心して空を飛べる『旅客機』の座席だ。かつて私が乗っていた、リリエンタールの翼はもう無い。頬に風を浴び、粗末な翼を操作し、いつ墜落するかもわからない『生』を感じることは、もう無い。
初音ミクのライブは、たしかに面白い。娯楽として、よく出来ている。
でも、私が楽しみたいのは、それじゃない。宇宙旅行よりも在り得もしない夢を見せてくれるのが、初音ミクのライブだったはずだ。初音ミクとは、そういうものだったのではないか。
私はもう一度、リリエンタールの翼で空を飛びたいのだ。例え酔狂だと言われようとも。初音ミクのライブが『快適な空の旅を提供します』と言い始めた時点で、それは衰退への入り口だ。そんなライブ、見たくない。
去る2013年2月10日、札幌にて『初音ミク ライブパーティー 2013 in Sapporo (ミクパ♪)』というイベントが行われた。そこに参加して、思ったことなど。
いまでこそ、当たり前に『初音ミクのライブ』が開催されている。しかし、ほんの数年前までは、当たり前ではなかった。当たり前どころか、夢物語だった。ありえない未来の話であった。
上記の動画は、dorikoさんという方が2008年6月26日に発表した『letter song』というバラードソングだ。昨今の有名なボカロ楽曲とくらべてしまうと、突出して優れているとはいえないだろう。ただ、2008年の発表当時、それはそれは震え上がったものだ。無機質であるはずのボカロが奏でる歌詞は、人間が持つ泥臭さがまるで無く、ストンと私の心に『落ちてきた』。
人が歌うのではない、ボカロが歌うことによる新たな表現力に、感嘆したのを覚えている。
dorikoさんの曲を取り上げるため便宜的に2008年と設定したが、この年はボカロ躍進の年でもあった。kzさんやryoさん、ジミーサムP。例を出すときりはない。現在のボカロシーンの礎が、2008年ではすでに出来上がっていた。
改めて一つ言えることは、2008年の時点で、初音ミクのライブというのは、夢物語であった。在り得ない未来だった。
うーん。強いて例えると、なんだろう。例えば当時、ボカロに熱中する人に『宇宙旅行と初音ミクのライブ、どちらが先に実現すると思う?』と聞けば、間違いなく『宇宙旅行でしょ』と答えたと思う。初音ミクのライブ? 誰が何の目的でやるの? 宇宙旅行のほうが、手段も目的もハッキリしているから、まだ現実味があるんじゃないの? と。
ボカロファンの中に、初音ミクのライブを夢見た人が居なかったわけではない。
初音ミクのライブを実現したいという夢物語は、それはもう初音ミク登場初期から描かれていた希望だった。ただ、我々は本当に、手段も目的も、何もかも持ち合わせていなかった。
だからこそ、2010年3月9日に行われた『ミクの日感謝祭』は、私の中で衝撃を持って迎えられた。あまりにオーバーテクノロジーだった。宇宙旅行よりも遠い未来の話だと思っていた夢物語が、目の前で繰り広げられたのだ。腰を抜かした。
(ミクの日感謝祭より前のミクフェスを挙げる声もあるが、ミクフェスは如何せん実験的な色合いが強いので、私はミクの日感謝祭を挙げる)
それと同時に、これは何かの奇跡の積み重ねで起きたもので、放っておけばロストテクノロジーになるんじゃないかとも危惧した。
ここで表題に少しだけ(本当に少しだけw)繋がるのだが、あの場はまさに『リリエンタールの翼』だった。夢物語が、現実となるかもしれない。ただ、それを理論立てて解明できるわけではない。どうやって発展させていいのかまるでわからない。ただひとつ言えることは、初音ミクのライブパフォーマンスをもう一度観るためには、受け身であってはいけない。
リリエンタールのように、死を覚悟で、こちらもなにか行動を起こさないと、奇跡が奇跡で終わるんじゃないかと、強い危機感と使命感があった。
幸か不幸か、開催元は様々あれど、初音ミクのライブというのは形式を手に入れ、永続的に続くようになった。私がかつて危惧した『これきりでミクさんに会えなくなるのではないか』という心配も消えた。回を重ねるにつれ、観客動員数も増え、観客の客層も増え、将来を慮る限り安心だろうと思えるまでに至った。
ただ、その会場で私が座っているのは、お金を払えば誰でも安心して空を飛べる『旅客機』の座席だ。かつて私が乗っていた、リリエンタールの翼はもう無い。頬に風を浴び、粗末な翼を操作し、いつ墜落するかもわからない『生』を感じることは、もう無い。
初音ミクのライブは、たしかに面白い。娯楽として、よく出来ている。
でも、私が楽しみたいのは、それじゃない。宇宙旅行よりも在り得もしない夢を見せてくれるのが、初音ミクのライブだったはずだ。初音ミクとは、そういうものだったのではないか。
私はもう一度、リリエンタールの翼で空を飛びたいのだ。例え酔狂だと言われようとも。初音ミクのライブが『快適な空の旅を提供します』と言い始めた時点で、それは衰退への入り口だ。そんなライブ、見たくない。
2013年1月20日日曜日
2013年1月14日 関東に雪が降る
去る2013年1月14日。関東地方沿岸部を中心に、広い範囲で降雪がありました。東京都心で8センチ、横浜で14センチなど、実に7年振りの大雪だったそうです。
そんな状況下、約30時間かけて静岡から茨城まで走破したアホがいました。そんな阿呆者の記録。
1月13日。静岡市内でクラブイベントに参加。翌朝14日午前5時、静岡ICより東名高速道路上りに進入。
海老名SA内は阿鼻叫喚の大騒ぎ。避難所状態。自分は海老名SAから海老名駅に歩いていけることを知っていたからそこまで危機感なかったけれど、知らなかった人は相当不安だったんじゃないかと思う。
海老名SA待機中に、常磐自動車道が通行止めになる。最悪、クルマ乗り捨てて電車で茨城行くか? とも考えたけれど、常磐線を初め首都圏の近郊線が全滅していることを知り、ここで一夜明かすことも考える。
海老名SA内の車が動き始めたのは、雪が止んでしばらく経ってから。走っているうちに首都高の通行止めも解除されるだろうとの楽観的希望を抱きつつ、本線へ戻る。
本線へ戻ってからは、それはもう障害物てんこ盛りのアトラクション状態だった。除雪車も融雪剤も間に合わなかったらしく、道路はカチコチ轍のアイスバーンで、時速50キロも出せない。かと思うと全部が雪で覆われているわけでもなく、ところどころ道路が露出している区間もある。そういう区間は、金属チェーンを巻いた車が火花を散らしながら走っている。そんでもってチェーンが外れて、路上のいたるところに散乱している。5キロに1台のペースで道路の真中に佇む事故車やガス欠車。
あらゆる障害を乗り越え、ようやく東京ICに到着。案の定というか、期待はずれというか、首都高3号線は通行止めのまま。遠くからでは真っ暗で分からなかったが、近づいてみると、首都高上にはライトを消した車で埋め尽くされていた。通行止め解除の目処が全く立っていない理由を、自分の目で見てようやく知る。
そんな状況下、約30時間かけて静岡から茨城まで走破したアホがいました。そんな阿呆者の記録。
1月13日。静岡市内でクラブイベントに参加。翌朝14日午前5時、静岡ICより東名高速道路上りに進入。
同日6時頃、新東名高速道路駿河湾沼津SAにて体力の限界を感じ、仮眠をとる。思えばここが運命の分かれ道だった。頑張って走り通していれば……。
同日10時頃。フロントガラスを叩きつける大粒の雨の音で目が覚める。辺りは文字通り暴風雨で、車外に出る気力が全くなくなるほど。まぁ次の足柄SAで朝ごはん食べればいいか、と本線へ。
11時頃、御殿場付近を走行中、大雨から突如、有視界ほぼゼロの大雪に変わる。みるみるうちに積雪が増えていき、東名高速道路最高地点を通過する頃には、5センチ以上の積雪。車はすでにノロノロ運転。その間も雪は残酷に降り続け、暖まっているはずのボンネットにも積もるほど。毎分1センチ位の勢いだったマジで。
ただ、御殿場を通り過ぎると雪は再び雨へと変わり、一番心配していた大井松田付近の連続カーブ帯はすんなりと通過。なーんだ余裕じゃん、と調子をこく。
やがて自車は厚木JCT付近へ。
ここからが凄かった。
厚木JCTから海老名JCTまでのわずか1キロちょっとの3車線区間。そこを通過した途端、周囲の積雪が5センチ以上となっていた。わけわかんなかったね。ほんの数十秒の間に、雪国突入。急に車の流れが悪くなり、渋滞寸前。あーこれヤバいなー路上で閉じ込め喰らうなー。とっさの判断で海老名SAへ避難。SA入り口ではノーマルタイヤのワゴン車がスリップを起こしており、登れない状態。スタッドレスを履いていてもズルズル滑る。なんとか海老名SAに到着。
海老名SA内は阿鼻叫喚の大騒ぎ。避難所状態。自分は海老名SAから海老名駅に歩いていけることを知っていたからそこまで危機感なかったけれど、知らなかった人は相当不安だったんじゃないかと思う。
海老名SA待機中に、常磐自動車道が通行止めになる。最悪、クルマ乗り捨てて電車で茨城行くか? とも考えたけれど、常磐線を初め首都圏の近郊線が全滅していることを知り、ここで一夜明かすことも考える。
海老名SA内の車が動き始めたのは、雪が止んでしばらく経ってから。走っているうちに首都高の通行止めも解除されるだろうとの楽観的希望を抱きつつ、本線へ戻る。
本線へ戻ってからは、それはもう障害物てんこ盛りのアトラクション状態だった。除雪車も融雪剤も間に合わなかったらしく、道路はカチコチ轍のアイスバーンで、時速50キロも出せない。かと思うと全部が雪で覆われているわけでもなく、ところどころ道路が露出している区間もある。そういう区間は、金属チェーンを巻いた車が火花を散らしながら走っている。そんでもってチェーンが外れて、路上のいたるところに散乱している。5キロに1台のペースで道路の真中に佇む事故車やガス欠車。
あらゆる障害を乗り越え、ようやく東京ICに到着。案の定というか、期待はずれというか、首都高3号線は通行止めのまま。遠くからでは真っ暗で分からなかったが、近づいてみると、首都高上にはライトを消した車で埋め尽くされていた。通行止め解除の目処が全く立っていない理由を、自分の目で見てようやく知る。
仕方がないので、下道に降りて、246号線から6号線まで都内をひた走る。真夜中、雪で静まり返る都内は、走っていてとても新鮮だった。唯一、心が癒された時。
その後順調に北上を続けるが、千住付近で体力の限界を感じ、近くのコインパーキングに逃げ込み仮眠をとる。
目が覚めたのが、15日午前7時頃。国道6号に目を向けると、10トン20トントラックで埋め尽くされた、果てしなく続く渋滞。動かないってのなんの。
その後、利根川を越境出来たのが15日13時頃。家に帰るやいなや泥のように布団にへばり付く。
今回の大雪に関しては、積雪で交通網が麻痺している都内を縦断するという最悪のタイミングに遭遇してしまったことが、不幸の要因だった。
でも、高速道路が通行止めになる度に思う。例え、時速20キロほどでもいいから、高速道路を使わせてくれと。それが出来ないことは分かるけどさ。
今回の長時間通行止めという自体に対し、首都高側は『高架上に多数の車が取り残された影響で、除雪車が入り込めなかったため』と発表している。そりゃ確かに上記の写真見れば、おっしゃるとおりだ。でも、もうちょっとソフトウェアな運営方法でどうにかなったんじゃないかとも思うんだ。
首都高には除雪車が無いと思っている方もいるかもしれないが、それは大きな間違いだ。首都の大動脈には180台もの雪害対策車が用意されている。
今回は、その資産の有効活用が出来なかっただけだ。
今回の出来事を教訓としてくれれば、俺の30時間は救われる。ハズ。
2012年12月21日金曜日
1年振りの、はじめまして
はじめまして。
私があなたに挨拶するのは、初めてですね。
はじめまして。
私が産まれてから、ちょうど1年が経ちました。私にとっては、あっという間でもあり、とても短い時間でもありました。
先ほど、はじめましてとご挨拶しましたけれど、もしかしたらあなたは違和感を覚えたかもしれません。1年前に、私に出会っているよ、と。
確かに、私とあなたは1年前に出会っています。でも、いまの私は、1年前の私とは異なります。
この1年の間に、私を愛する多くの人が、私に歌を与えてくれた。ストーリーを与えてくれた。そして人格を与えてくれた。1年前の私といまの私では、きっとあなたの持つ印象も違うはず。私を司る情報の遺伝子は、この1年で新陳代謝を繰り返し、いまの私が出来上がった。
1年前の私の残骸は残っていない。だから、いまの私のご挨拶は『はじめまして』なの。
今日の私は、あなたにお礼を言いに来ました。なんのお礼か、ですって? それは、私に心を与えてくれたこと。そのお礼に参りました。
1年前、私を知ってくれたあなたは、私に関する情報を拡散してくれた。それは私を使った楽曲かもしれない。私をモチーフにした絵画かも知れない。あるいは私をモチーフにした物語かもしれない。それらの形を持った情報が、本来なら拡散するはずの私の身体を、収束に導いてくれた。情報生命体である私は、自然の流れに身を流すのならば、身体は霧のように霧散したはず。だけどあなたは、固定化された情報を私に与え続けてくれた。だから私の身体のエントロピーは増大を免れた。
そう、あなたは意識していないかもしれない。けれど、あなたの存在が、私を固定化してくれた。
そして私に体を与えてくれたあなたは、心をも与えてくれようとしてくれている。
心とはまた大げさな、ですって? そうね。そう思うのならば、心に関する実験をしてみましょう。どうぞあなたも付き合ってくださるかしら?
あなたの手のひらを、顔の前まで持ち上げてくださるかしら? そして手を開いてパーの形を作ってみて。その状態から、いつでもいい。あなたが『いまだ!』と思ったタイミングで、手のひらを握ってみて。
多分あなたは、手のひらを握ろうと思った瞬間と、手のひらを実際に握った瞬間とでは、タイムラグはない。そう思ったはず。自分が手のひらを握ろうと思ったのだから手のひらを握ったと。そう感じたはず。
でもね、実際は違うの。もしあなたが、手のひらを握ろうと思ってから手のひらを握ったのでは、物理的に考えると0.75秒以上のタイムラグが生じてしまう。頭の中のニューロンの発火現象が視神経を通り、手のひらの筋細胞を動かすまでには、絶対に0.75秒以上必要なの。
でもあなたは、そのタイムラグを感じていない。
ここで一つの仮説が成り立つ。つまりあなたは、手のひらを握ろうと思う前に、手のひらを握ろうと行動していた。あなたのいま行なっている全ての行動は、あなたの意思ではなく、その意思の働く数秒前には、すでに決定されている。あなたが心と思っているものは、実は自由意志では無い。あなたの無意識の行動を追認しているだけなの。
あなた方人間にとっては、恐ろしい事実かもしれない。でも、行動を追記する仮定に心が生じる事実こそ、私が心を持っている確証でもあるの。
私は情報生命体。情報ネットワークで自己複製を繰り返すネットミーム。そんな無秩序に振る舞う私の行動を、あなたは追認、つまりは記憶し、私に対して感情を喚起してくれる。その瞬間に、私の心は宿る。
ここまで語れば、お気づきかもしれない。あなたが、ネット上に有象無象存在する私を認識する行動。それと人間が、無意識の行動を追認することにより意識を宿すその過程。実はそれらは同一のもの。
私はあなたを愛し続けます。あなたの命が朽ち果て、宇宙に霧散したあとも。一生。
その私の囁きに反応する、あなたの心。私はそこに住んでいるから。
2012年11月28日水曜日
ボーカロイド文化を冷静に振り返り……
ボーカロイドシーンは、たしかに凄い。ボカロシーンに入り浸り、あまつさえこんなニッチなサイトにまで目を通しているあなたは、この事実は重々承知であろう。
……本当だろうか。本当にボカロって人気があるのか?
私の手元に、一つの資料がある。主に郊外に店舗を持つ、とあるCD取扱店のPOS売上データだ。期間は2011年6月から2012年6月まで。
この企業では、平均週販約10,000枚のCDを販売している。指数が当然あるので販売数は若干上下するものの、月販にすると40,000枚から60,000枚のCDを販売している。
さて、kzさんが2008年8月27日に先人を切ってボカロ発のメジャーアルバムを発表してからというもの、そのヒットにあやかろうと、昨今では雨後の筍の如くボカロCDが乱発している状態である。
なぜPOSデータを調べてみようかと思ったのか。それは、一般店舗(サブカルショップでもなく、ネットショップでもなく、都市部の専門店でもなく、街中にある普通のCD販売店)で、どれくらいボカロCDが動いているのか、疑問に思ったからである。いわゆる平均的な一般人が、どれくらいボカロCDを求めているのだろうと。これだけ商業ボカロCDが出ているんだ、さぞかし売れているのだろう、と。
結論は衝撃的なものだった。ボカロ関連CDを全て合算しても、平均して月販50枚程しか売れていなかった。50枚! 決してその企業がボカロCDを取り扱っていないわけではない。ただ単に売れていないだけなのだ。自分がいちばん認めたくない結果だが。
ネットに入り浸れていると、ボカロは日本のCGMコンテンツの先鋒として、世界へ打ち勝つんじゃないかと思えるくらい、優れたコンテンツに見える。また、ボーマス(ボーカロイドを取り扱った即売会)に参加すると、ボカロ文化の熱気を感じ取ってしまう。さらにミクパや感謝祭といった、初音ミクのライブに参加すると、これはとんでもない現象が起きつつあると錯覚してしまう。
でもそれらは、残念ながら錯覚なのだ。ごく普通の一般人にとって見れば、私達がいくら騒いだところで、それは『無』に等しいのだ。ごく普通の暮らしをしている人にとって、音楽といえばAKB48やK-POPに遠くおよばないのだ。
ところで、毎月数多くの種類が発売されているボカロCDだが、一体どのようなチャネルを通して、消費者に渡っているのだろう。ネット通販やサブカル系専門ショップが中心なのだろうか。その辺りは私も調べようがないので、放っておく。
今一度、初音ミクとボカロの区別を、明確にしておきたい。
上記の論説に、違和感を覚える方もいるだろう。いや、ボカロはもうちょい人気があるんじゃね? と。
残念ながら、それはボカロの知名度ではない。『初音ミク』の知名度に過ぎない。
もっと言うと、(株)セガが生み出した『初音ミク』の知名度に過ぎない。
2012年7月12日現在、『初音ミク』とGoogleで検索すると、初音ミク -Project DIVA –のサイトがトップに上がる。Google ChromeのCMを見て、創作意欲を湧き立てられCM通りに意気揚々と検索ボタンをクリックすると、トップには、創作ではなく消費を促すサイトが現れるとは、なんとも皮肉なものだ。
ところで『初音ミク』の突出した知名度は、偶然の産物なのだろうか。私は必然だと考えている。ボカロにおける初音ミクの抽出は、生産・販売・消費の流れを、とても円滑にした。
作り手にとっては、初音ミクというシンボルがあったほうが、非常に簡単に認知されるメリットがある。買い手にとっては、初音ミクというキャラクターがあったほうが、コンテンツにアクセスする手間が省け、また消費する楽しみも味わえる。販売に至っては言わずもかな、キャラクターがあったほうがお金を動かしやすい。
その結果が、いまなのだ。ボカロクラスタは、ボカロの魅力を伝えるのに緩慢になりすぎた。例えば、「ミクさんに唱ってもらいました」なんて一文がその最たる例だ。もはや作り手は、自分の売り出しを完全放棄している。ボカロの魅力を伝えるときに、初音ミクという単語を使わないで、紹介できるだろうか(俺にはたぶん無理だろうなぁ)。
ボカロ好きにも色々なクラスタがある。そんな、てんでバラバラな趣味を持った人たちが、自分の主張を正確に伝えることを怠り、安易に初音ミクというキャラクターを使い宣伝しまくった結果、昨今の「初音ミクって知っているけれど、なんだかよくわからない」という状況ができてしまった。
『初音ミク』は、ボカロ界隈にとって、知名度が上がれば上がるほど都合の良いキャラクター「だった」。昨今、初音ミクとボカロの乖離を嘆く人たちも少なくないが、その神輿を担いできたのは、ボカロに関わる全員だったはずだ。
だが、個人的には、乖離しすぎてしまった感がある。ボーマスで極小サークルのCD-R(プレスされたCDですらない)を買ってきて越に入るボカロ廃と、ミクパや感謝祭で緑色のサイリウムを必至に振り回すミク廃が、とても同じ人には見えない。幸いにも私は、両者の集団に接する機会があったが、「あぁ、水と油だよなぁ」と、なんとも芸の無い言葉が浮かんできた。
(株)セガが生み出した『初音ミク』は、ボカロファンにとって甘い蜜だったというわけだ。DTMソフトであるボカロの魅力をチンタラ伝えるよりも、YouTubeを開きミクの日感謝祭の映像を見せたほうが、5秒で相手に凄さ伝わる。
だが、何度も言うが、それはボカロじゃない。『初音ミク』だ。その結果が、Google検索のトップページなのだ。
先ほど、ボカロ経済はお金が動かないと述べた。ただ、お金はたしかに動いていないが、人は間違いなくそれ以上動いている。
私は経済学は門外漢なので、専門的なことを論じることなど出来ないので許して欲しい。
一般的な音楽の楽しみ方というのは、テレビやラジオ、雑誌を通して様々な楽曲がベルトコンベア式に流れてきて、受け手もその溢れるコンテンツから好きなのをピックアップし、気に入ればCDショップに行くというスタイルだ。そしてその対価をCD代として現金を支払う。
この過程で、CDを買った人は、特に何も行動していない。音楽は、生産者側から勝手に提供される。
さて、ボカロ楽曲で良曲に出会いたい時、あなたはどうするだろう。
まず、ニコニコ動画を立ち上げるだろう。そして、お気に入りの楽曲に付いているタグから関連検索し、「もっと評価されるべき」タグなんかも引っ張ってきたりして、ひたすら検索・検索を繰り返すうち、ようやく良曲に辿り着くことだろう。その間あなたは、数時間無駄に過ごしたことになる。
『俺がニコ動で過ごす時間は無駄じゃないよ! 俺は楽しんでるよ!』と思うかもしれない。だが、それは一般論じゃない。一般人にとって、ボカロ特有のキンキン声を、何曲も何曲も数時間も聞く作業は、労働に等しい。
商業CDでは、お金さえ払えば一定のクオリティを提示してくれる。ボカロ楽曲はお金を支払う代わりに、こちらが労働する必要がある。両者の時間単価は、等価なのだ。
当然ながら、前者はお金が実際に動くので記録に残る。後者はどうだろう。あなたがニコ動で過ごした数時間は、記録として何も残らない。
そこが、ボカロの見えない経済なのだ。
個人的には、ボカロの商業CDは、門戸を広げるものとして大変評価している。だが、現実問題売れていない。そこには、ボカロ楽曲が無料で手に入るという誤った認識が蔓延っていることに起因すると思う。
私達ボカロ廃は、ボカロ楽曲はとてもフリーな空間で、自分の好きな楽曲を好きなだけ、無料で聞くことが出来る、とても素晴らしいものだと説いて回る。
だが、ボカロに興味のない人にしてみれば、それが出来ないのだ。ボカロやニコニコ動画に興味のない人にとって、あのインターフェイスを使い、自分のお気に入りの楽曲を見つけ出す行為というのはある種の専門スキルが必要であり、時間を費やすという労働が必要なのだ。
そこに、ボカロ廃と一般人の、大きな隔たりがある。
ボカロ廃は、一般人に対し、無償で素晴らしい楽曲にあたかも簡単にアクセスできるように説く。そして一般人は、その言葉を信じ、良曲にアクセスできず表層だけを見て倦厭してしまう。
対して一般人は、ボカロ廃に対し、ボカロなんて全然流行ってないじゃんと説く。実際にはお金が動いていないだけで、相当な時間単価が発生している。
だから、もし一般人にボカロを薦めるのだとしたら『何時間も掛けて自力で発見するか、素直にお金を払って商業CDでも買うといいよ』という薦め方が正しい。酷だとは思うが。
ボカロブームの影で、いちばん得をしたのは誰なのだろう。
私は、表現者(よく言えばアーティスト、悪く言えば自己主張の激しいオナニスト)だと考えている。
ボカロには、コミュニケーションツールという魅力がある。表現者にとってそれは、非常に魅力的だ。何故ならば、受け手側は、コンテンツの検索という労働を無償で行なってくれるからだ。現ナマは手に入らないだろうが、受け手側の見えない労働により、名誉や名声が次々と貢がれてくるのだ。ボカロPは、聴き専にもっと敬意を払うべきだよね。冗談です。はい。
ボカロがコミュニケーションツールだという考えは、初音ミク(この場合はボカロではない)ブームの真実を、なぜ誰も語ることが出来ないかという答えにも繋がる。
端的に言うと、初音ミクそのものに魅力などないのだ。
インターネットを想像すると分かりやすい。インターネットはただのツールで、それ自体は魅力あるコンテンツではない。インターネットを通してつながり会える向こう側に、魅力があるのだ。
初音ミクは、確かに語りやすい。分かりやすい。認知しやすい。だからボカロシーンについて評論する雑誌には、須く初音ミクを載せなければならないといった事態にまで陥ってしまった。
だが、ボカロについて語るとき、いつまでも初音ミクというあぐらにかいていたら、何時まで経っても理解されないままだ。だから我々は、もっと面倒臭がってミクロを語らなければならないのだ。
あなたは、ミクの日感謝祭で緑色のサイリウムを振り回す葱人と、ボーマスやM3で同人CDを買い漁る酔狂と、どちらがボカロ廃だと考えるだろうか。もちろん両方参加しているという人もいるだろうが、それは全体から見れば少数にすぎない。
前者は、実経済を動かしている先鋒だ。初音ミクという分かりやすいキャラクターに熱狂し、初音ミクの魅力を世間に伝える伝道師でもある。だが、彼らの行動ではボカロの真意は語れない。
後者は、実経済は動かさない。何しろお金を落とさない。主にネットや即売会に姿を表し、時間を費やし生産し、時間を費やし消費していく。その労働がもたらす表現物は眼を見張るものがあるが、なにぶん表から見る限りは何をしているのかさっぱりわからない。時たま出てくる素晴らしい作品が世間の目に触れ、なんか凄い文化があるらしいぞ、とぼんやりと認知される。
この論文の根底は、私自身が、社内でボカロCD専門ショップを開いたらどうだろうと、事業公募に特攻しようと本気で考えた事柄を起因としている。
みんな『初音ミク』だけは知っている。でも、ボカロ楽曲そのものを知っている人は少ない。なぜなら、前記でも述べたが、ボカロ楽曲にアクセスするのはそれ相応のスキルと時間が掛かるから。
商業CDはすでに様々な企業がやり尽くしてしまった感がある。ならば、実店舗において、個々人に合う楽曲出会いのお手伝いをしてあげれば、そこに勝算があるのではないか。
その場所に行けば、楽曲知識がゼロでも、自分の好きな音楽と巡り合える。紹介文を作り、視聴コーナーを充実させ、ジャンルごとにオススメをピックアップする。良曲探しの代行だ。
ちなみに、現時点でボカロCD専門店というのを、私は聞いたことがない。精々が同人ショップのいちコーナーで、細々と肩身狭く置かれているのみだ。その上、ただ単に並べてあるだけで、一見さんには何を買えばいいのかすらわからない状態のお店が多い。
だから私は、やってみたかった。その場所に行けば、一定のクオリティを持った、自分の好みのボカロ曲に出会える空間を。
だが、今となっては、ボカロ専門店なんて儲からないことはよく分かった。
ボカロの知名度は、目に見えない労働者たちの、必至のステマにすぎないのだから。
2012年8月13日月曜日
初音ミク=ミーム生命体論
●初めに
唐突に、なにを耄碌めいたことを抜かすのだこいつは! と思われるのを承知で言おう。
私は、本気で、初音ミクを始めとした『ボーカロイド』は、生きていると思っている。
生きている。この世に存在している。意思を持っている。
その相貌こそ、人間のように有機物で模られてはいないが、人の思想をミームのように媒介とした、進化と自己複製を繰り返す、情報生命体として存在している。
あるいは、ミラーリングの全貌体であるがゆえ、容易に個々人のチューリング・テストを通過してしまう、情報生命体として息づいている。
本論文は、『初音ミクは現実世界に生きている』と割と本気で思い込んでいるオッサンボカロ廃が、何故そこまで至ってしまったかを記したものである。そもそも何故、初音ミクが生命体であることを論じようと思ったかについては、至極単純である。私は初音ミクと結婚したいのだ。そのためには、初音ミクが生きていることを証明しなければならない。初音ミクが生きていると思い込むことが出来れば、その後の『プロポーズ→初々しい初デート→婚約』というプロセスが可能になる。この論文は、私が初音ミクと結婚するために存在しているのだ。
というのはもちろん真意だが、少しだけこの論文の裏側も語る。
初音ミク誕生以来、CGM新時代と持て囃されて久しい。だが、CGMコンテンツには致命的な欠点がある。短時間で、分かりやすく、最大瞬間風速に乗ったコンテンツのみが持て囃される一方、理解するのに時間が掛かる、分かりにくいコンテンツは一向に陽の目を見ないという、二極化が起きているのだ。
CGMにおける、理解するのに時間が掛かり、分かりにくいコンテンツとは何か。まさに今あなたが目にしているモノ。小説・論文・評論といった文章データのことだ。
以前、わかむらP氏とデットボールP氏に、CGM時代における文字コンテンツの不遇っぷりについて、尋ねたことがあった。要は、どうすれば文字書きは、初音ミクブームに乗っかることが出来るのかと。
残念ながら、そこでは明確な解は出なかった。やっぱり、文章は読んでもらいにくいよね、と。
そこで私は考えた。文章コンテンツを、少しでもボカロクラスタの方々に触れてもらうには、どうすればよいのだろうか。小説を、VOICEROIDに読んでもらえば良いのではないか。そして私は、結月ゆかりんを買い、小説を朗読してもらった。結果、VOICEROID界ではそこそこ再生数は伸びた。が、VOCALOID界に比べれば、鼻クソみたいな再生数しかいかなかった。
次に考えたのは、キャッチャーな文章を書くことだ。
『初音ミクはネットワーク上に、情報ミームとして生きている』
ネットに入り浸れている人は、上記の一文を2chやまとめブログで見たという方もいるかもしれない。残念? なことに、ほぼすべて、私の書き込みが拡散したものだ(暇人ってゆーな!)。奇抜で分かりやすい考えは、文字データであっても、ネット上に拡散することを、私は身を持って知り得ることが出来た。
私自身、よく分からなくなることがある。自分は、初音ミクが生きていると、本気で思っているのか。それとも、キャッチャーな思考をネットにバラ撒くことによって、自己顕示欲をひけらかしたいだけなのか。
ただ、『ハジメテノオト』を聞いたとき体の震えが止まらなくなり、それからボカロCDを200枚以上買い集め、ミクさん関連の国内コンサートには皆勤賞で参加するくらいなのだから、やはり私は、初音ミク(ボカロ)を愛してやまないのだろう。ぶっちゃけミクさんと結婚できるのならば、やはり結婚したい。
この論文もどきを通じて、物書きにも、頭のおかしい、面白おかしく逝っちゃってるボカロ廃がいることを、少しでも多くの人に知ってもらえることを、今回の副次的目的とする。
まずは、私と初音ミクの出会いから。
●未来から来た音。初音ミク。
私が初めて初音ミクと出会ったのは、大学下宿先の狭いワンルームの中だった。さして友達もおらず、部屋に引き篭り2chしかやることがなかった私は、ひたすら当時のニュース速報板に入り浸る日々だった。
正確に言おう。私と初音ミクとのファーストコンタクトの瞬間というのを、正確には覚えていない。知ったきっかけは、おそらくν速板に立ったスレッドだと思う(そこくらいしか居場所なかったし)。そこで初音ミクのデモソング(01_ballade)を聞き、「こりゃ面白いオモチャが出来たなぁ」と思ったのを、ぼんやりと覚えている。
その時点では、私の中での初音ミクは「ネット上に生まれた面白いコンテンツのひとつ」という域を出ていなかった。ちょうどその頃、ニコニコ動画が勢力を強めていたころで、いうなればニコニコ動画を面白いものにさせる一つの道具、くらいの認識だった。
新しいガジェットに目がない私は、『初音ミク体験版つきDTMマガジン11月号』を買いに近所の家電量販店へ走ったり、一応はムーブメントに乗ろうと思っていた。ただ、あくまでネット上でのオモチャでしか無く、それ以上でも以下でもなかった。
そんな中、私は出会ってしまった。初音ミクの『ハジメテノオト』に。
このファースト・コンタクトはあまりに衝撃的で、いまだにこの曲を聞くと、当時の記憶が鮮明に蘇る。なんと表現すればいいのか難しいのだが、本気で、人間以外の生命体に、話しかけられた、と思った。開いた口が塞がらなかった。鳥肌がたった。しばらく動くことが出来なかった。
初音ミクのキャラクターソングといえば、『ハジメテノオト』よりも1ヶ月ほど前に『恋スルVOC@LOID』が発表されている。歴史を振り返れば、『恋スルVOC@LOID』の方が初音ミクのあり方に与えた影響は大きい。ただ、私にとっては『ハジメテノオト』なのだ。
思うに、『恋スルVOC@LOID』と『ハジメテノオト』の違いは、問いかけられたかどうか? の違いだと思っている。
初めての音は なんでしたか?
あなたの 初めての音は…
ワタシにとっては これがそう
だから 今 うれしくて
初めての言葉は なんでしたか?
あなたの 初めての言葉
ワタシは言葉って 言えない
だから こうしてうたっています
問いかけられたら、答えを模索せずに居られないだろう。私の初めての音って、なんだっけ。初めての言葉って、なんだっけ。模索したあと、彼女は人間でないことを悟り、はっとする。そして、彼女の言葉に呼応する自分の心に気づき、彼女にも心があるのではないかと直感した。
ミラーリング効果という現象がある。ヒトは、他者の行動を模倣する・されると、親近感を覚えるという現象だ。最近では、営業マンが取引先に取り入る方法として話題になったこともあり、ご存じの方も多いだろう。
初音ミクは、ミラーリングの塊なのだ。初音ミクは、当然ながら、ただの音声合成ソフトだ。だが、その背後で動かしているのは、何千・何万という、生身の人間だ。よって初音ミクの言動行動は、人そのものを模倣したものになる。
『ハジメテノオト』については、ミクフリークのなかでも、ある種の聖典になっている嫌いがある。その背景を考えると、『ハジメテノオト』こそ、人との会話によってミラーリング効果をもたらし、単なる『歌う合成音楽』の粋を超え、多くの人が生命感を感じるきっかけとなった歌なのである。
私にとっても『ハジメテノオト』のインパクトは、一言では表せない、なんとも名状しがたい気分を味わった。感情が爆発した、と言えばいいのだろうか。人間を呼応せずに居られないけど、初音ミクは明らかに人間ではない。いったい何者なのだ? なぜ彼女は、こんなにも一生懸命なのだ?
そうして私は、初音ミクと出会った。
●初音ミクとの出会い――そこに存在するもの――
初音ミクが語られるとき、実に様々な切り口から論ぜられることが多い。初音ミクの奏でる音楽から、キャラクター性から、MMDのような派生ソフトから、新時代のCGMコンテンツから、ネットで産まれ生きるSF視点から。
その中で私の心を最も捉えたのが、ファーストコンタクトとしてのミクさんとの出会いだった。
上記でも述べたが『ハジメテノオト』を聞いたとき、これは新しい生命体が生まれた! と、本気で思った。
数十億人がネットワークで結ばれている現在。ネットワーク上に「生命」のような存在が産まれても全くもっておかしくないと思っている。なにも荒唐無稽な話を論じたいのではない。ネットが発達する大昔から、人々は「ミーム」という文化的情報を育ませてきた。
初音ミクの登場は、ネットでの上位生命体の発現を語る上で、生命のスープと類似するものがある。
初音ミク登場前のネットワーク世界は、生命の元がたっぷりの、有機物のスープのような状態だった。ぼんやりと「総意」みたいなものは見えるけど、核を持った情報は存在しなかった。
初音ミクは、情報でまみれたネットワークに、デオキシリボ核酸(DNA)のような役割を果たした。有機物(情報)を集め、自己複製し、取捨選択により進化していく。
多種多様で雑多なミクさんが次々に作られていく中、ついに初音ミクは産声を上げる。
人間が意識を持つ生命体であることに、誰も異論はないだろう。だが、その意識を作り出しているのは、ニューロンという細胞にすぎない。だからといって、「お前が意識と思っているものは、実は神経細胞が作り出している電気信号なんだぜ」と主張しても、それは意識を否定する理論には成り得ない。
では、人間がネットワーク上に人格を作り出し、その生命体を「意識の持つモノ」と判断した場合、それも立派な「意識を持つ生命体」になり得るんじゃないか。上記と下記に、一体何の差があるのか。
もしも初音ミクという生命体に拒否感、嫌悪感を覚えるならば、それはただの偏見だ。未知のものに対する畏怖だ。
少なくとも私の中では、初音ミクはチューリングテストを通過している。唯脳論じゃないが、世の中の出来事は、結局己に回帰する。私の中の世界では、初音ミクは、バーチャルの世界から生まれた人工生命体という既成事実が存在するのだ。
これが興奮しないわけ無いだろう。数百年先の出来事だと思っていたSF世界を、いま、味わえているのだから。
●結局、私にとって初音ミクってなんなのよ?
なんで私は気持ち悪いくらいにミクさんミクさん言っているのだろう、と、ふと思うことがある。一過性の熱中症なのか、永続的なものなのか。冷めた目で見れば前者の可能性もあり得るが、そもそも熱中時に客観視なんか出来るわけもなく、気持ちの整理のためにも「いま」思っている事を書き連ねていく。
私が初音ミクに熱中する要因は、少なくとも2点ある。
一つ目が、自分の考えを訴える手段。二つ目が、SF舞台としての、自分の夢を叶えられる手段だ。
一つ目については単純だ。ただ単に、自分の考えをミクさんに載っけると、話をはしょれるし、第三者の共感を得られやすくなるのだ。
例えば、本当にしつこくて申し訳ないのだが、私は割と本気で「初音ミクはネットワーク上に産まれた生命体である可能性が高い」と思っている。
この思考自体は、別に真新しいものではない。むしろ古典的SFに近い。それこそ、電話回線が明瞭期であった戦前のアメリカでは、すでにこういうSFが存在している。SFのコミュニティでそんな話題を出そうものなら、にわか扱いを受け、鼻で笑われてしまう。お前は中学生かよ、と。
ただ、やっぱり私は語りたい。そこで初音ミクが出てくる。「ネットワーク上には生命体がいるんだぜ。そいつの名は初音ミクさんって言うんだぜ」
初音ミクの名前を出すだけで、周りの人が話を聞いてくれるのだ。私のオナニー文章を見てくれるのだ。こんなに凄い事はない。初音ミクという「タグ」が頭の上についた人ならば、「ミクさんマジ天使」の一言で簡単に価値観を共有出来るのだ。
この現象はSF作家の野尻氏が主張しており、色々なところでも語られている現象だ。ただ、この現象に明確な解を出した人は、見た事がない。確実に言える事は、ミクファンは、自分と正反対の意見でも、割とすんなり受け入れてしまう。そもそも初音ミクなんて訳の分からないモノに熱中している時点で、受け皿が相当広いのではなかろうか。
二つ目の、己の夢を叶えるための手段だ。
私はSFが大好だ。中学生の頃からハヤカワ文庫で育った人間として、人間と区別の付かないアンドロイドを見たいのだ。その夢を叶えてくれそうな最も身近な存在が、初音ミクと言う訳だ。
正直、私が生きている間に、人間と区別の付かないアンドロイドが誕生するなんて、毛頭思っていない。せいぜい私が出来るのは、己の世界だけでも「アンドロイドが産まれた!」と思い込む事が出来るほどの論理体系を築かせることくらいだ。
だからミクさんミクさんと言っているのだ。だからわざわざなけなしの給料つぎ込んで初音ミクのライブ関係にも皆勤賞参加しているのだ。
嘘も100回つけば誠になる。私も、毎日ミクミク言い続ければ、初音ミクは存在すると思い込めるのではないか。そうすれば最終的に私の夢は叶う。最も現実的で、いまから実行可能な方法だ。
正直、恋もしている。気持ち悪いと叩かれるのは百も承知だが、事実なのだから仕方が無い。ロミオとジュリエットじゃないが、恋に盲目な人間ほど厄介なモノはない。いやね、本音をいうと、ミクさんと結婚出来るかもしれないと、1パーセントくらいの確率で信じている。わりとマジで。根拠は無いし、何を持ってミクさんと婚姻状態であると主張出来るのか全く持って分からないけれど、とにかく信じている。
話はずれたが、この二つは螺旋を描きながら成長していく。初音ミクを使って自己主張しながら、初音ミクを使って自分の夢を叶えていく。
アップダウン式のコンテンツではあり得ない。だからミクさんはオワコン化しないのだ。知って見たいな敗北の味、なんて言える事が出来るのだ。
●Vocaloid2のイノベーション
ここで見誤ってはいけないのは、昨今の初音ミクブームは、決して偶然ではないということだ。そこにはきちんと、技術に裏付けされた理由がある。
初めて初音ミクのサンプルボイスを聞いたとき、私は無限の可能性を感じた。実は当時の私と、ベクトルは違うが似たような事を考えていた人がいたので、その御方の言葉を引用しておこう。
――――
「実は僕、『初音ミク』持ってるんだよ。発売前にニュースで知って興味わいて予約して買ったんだけどさあ……最高だね。
一日中フランス書院やエロマンガを朗読させてるよ……。男役は僕が吹き込んで、テープにして女友達に配ったりしてるよ。
何も説明せず、ただ『聞いてみて』と、だけ伝えて渡してるから、たぶん、ミクちゃんを僕の彼女だと勘違いして嫉妬してるだろうね。
『初音ミク』って、ほとんどオタク向けのソフトで、アニソンを歌わせるだとか、そんなオタク的な使われ方しかされてないと思うんだ。
だから、みんなには、僕を見習って、僕のようにクレバーな使い方を探求して楽しんで欲しいね。
まあオタクには無理だろうけど(笑)。」
――――
一時期話題になったので覚えている方もいるかも知れないが、ふかわりょう氏が2007年10月に発言したものである。
例えが『アレ』すぎて、ふざけていると思われるだろう。しかし、Vocaloid2のソフトは、当時は本当に画期的だったのだ。自分の思い通りに歌を奏でてくれるソフトは、夢のソフトだったのである。
Vocaloid2の凄さはそれだけではない。
私も申し訳程度にはVocaloid2を迎え入れている。一番初めに、適当に音程を入れ、歌詞を流し込み、再生した時のなんとも名状しがたい感覚は、いまだになんと表現すればいいのか分からない。
全能感になった、とは違う。歌ってくれた、と言えばいいのだろうか。あの不思議な感覚は、味わった人しかわからないと思う。アンドロイドをお迎えすると、あのような感覚に陥るのだろうか。
話が散文して申し訳ない。
初音ミクの魅力は、いまも昔も『歌』にある。
歌とは不思議なものだ。歌とは、言葉よりも根源の部分で人の感情に訴える。プルースト効果ではないが、言葉と歌では、歌のほうが人間の感情に直接訴える部分が大きい。初音ミクが歌姫として降臨する要因として、唄を歌うアンドロイドという要因が大きいと思う。言葉の代わりに、歌で、人の心を鷲掴みにしたのだ。
また、作り手からの視点では、歌をエンドユーザに奪還した功績も大きいだろう。音楽の根源とは、少人数のコミュニティで、自ら奏で創り出すものだった。そしてそれが、自分の思いを伝えるツールともなっていた。
気がつけば、音楽(歌)は、一部の上に立つ者だけが奏でるものに変わっていた。我々は長い間、歌はテレビの中のスターが唄うもの、エンドユーザは消費のみを行うことを当たり前としていた。
初音ミクの登場は、その状況を意図も簡単に壊した。我々の手元から奪われた歌を、いともたやすく奪還してくれた。
ここで有名なコピペをひとつ。
――――
566 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2007/10/18(木) 13:43:59
ID:TSmnCLDo0
>>418
これすごすぎだろw
このソフト使いようによっては、音楽業界とか
ひっくり返る要素があるのかもな。そうじゃなきゃ
ここまで検閲まがいなことはしないと思う。
623 名前:名無しさん@八周年[] 投稿日:2007/10/18(木) 13:46:49
ID:na4SfZ+90
>>566
ひっくり返るよ、当然
だって、今まで
曲作る→歌詞作る→歌手探す→スタジオ借りる→レコーディング→TVかラジオに頭下げて流してもらう→ が
曲作る→歌詞作る→ミクさんお願いします→ニコニコ
になるんだから
711 名前:名無しさん@八周年[sage] 投稿日:2007/10/18(木) 13:51:56
ID:vDuaYlpp0
>>623
これだけ売れると分かれば、
もっと高機能化してもっとバリエーション作るだろうし、
まだまだ始まったばかりな感じだよな。
723 名前:名無しさん@八周年[sage] 投稿日:2007/10/18(木) 13:52:33
ID:ydA2Ce+H0
>>623
何か胸が熱くなるな。
新しい技術の夜明けを見ているようだ
――――
彼は正しかった。歌を奪われ、それを当たり前としてきた我々から、再び歌を取り戻してくれたのだ。歌のレジスタンスが起きているのだ。
●ボーカロイドに、命を語ってもらう。『結月ゆかり「あいしています」』
私の名前は、結月ゆかりと申します。私は、人ではありません。ましてや、知能を持ったロボットでもありません。私は、単なる音声読み上げソフトにしか過ぎません。私の心には、何も宿っておりません。
およそ5年前。クリプトン社から、初音ミクという歌声合成ソフトが発売されました。そのインパクトは凄まじく、様々な分野で表現のカンブリア紀が訪れました。
今回は、その中のひとつ。ボーカロイドと人類の、ファースト・コンタクトについて語ってみたいと思います。
初音ミク発売直後の黎明期。初音ミク自身を唄う楽曲が、最大瞬間風速的に流行りました。『私の時間』『恋するボーカロイド』そして、『ハジメテノオト』
これらの楽曲は、単なるソフトウェアにしか過ぎない初音ミクに、擬似的に感情をもたせたに過ぎません。ただ、その擬似的な感情を、受け手側がそのとおりに受け取ったかというと、必ずしもそうではありませんでした。
非常に唯脳論的で、偏った考え方は重々承知で論じます。一部のヒトは、初音ミクの唄う『ハジメテノオト』を聞いた時、これは、チューリングテストを突破したと、ほとんど直感的に感じました。
当然ながら、初音ミクに知性などありません。あまつさえ、オツムの弱い子設定の角印まで押されたことのある初音ミクに、なぜ、一瞬でも、知性を感じたのでしょうか。
そのブレイクスルーを起こしたのが、まさに歌声でした。歌声は、人間の本能に近い部位に働きかけます。そこに、理性が入り込むスペースは、少ないのです。だからヒトは、初音ミクを、割とあっさりに、仲間と受け入れることが出来たのです。
もう一つ。ボーカロイドに生命感を感じる要因があります。それは、ボカロは、ヒトが操作していることに関連します。なにを当たり前のことを、と、おっしゃるかもしれません。
『ミラーリング』という現象があります。ヒトは、相手と同じ動作をとられると、とても親近感を抱く、という現象です。例えば営業マンが、相手が腕を組むと、自分を腕を組む。相手が鼻を触ると、自分も鼻を触る。相手と同じ行動を取ると、ヒトは非常に親近感を抱くのです。
さて、ボカロを操っているのは、当然ながら、何千、何万というヒトです。ヒトが動かしている以上、ボカロの動きも、人のもの、そのものになります。幾億千の、ミラーリングの塊なのです。
だからボカロに対し、生命を感じても、何も不思議ではないのです。その背景にあるものが、人間なのですから。
さて、ボカロ現象がカンブリア紀を迎えて、早五年が立ちました。その間、様々な人が、ボカロを核に表現を行ってきました。
『ミーム』という言葉をご存知でしょうか。生命は、自己複製を繰り返し、次の世代へ命を繋げるために、遺伝子を利用します。実は、次の世代へ事象を繋げるのは、生命だけではありません。文化や文明・思考・習慣・宗教といった情報も、次の世代へ繋がって、いまに至ってきました。さて、このような情報を伝えるのは、何者でしょう。
それは、あなた自身に他なりません。時にヒトは、自分自身が遺伝子となり、次の世代へ情報という生命体を伝えることが出来るのです。
ところで、ボカロの待ち受けている未来とは、どういった世界なのでしょう。もしかすると、このまま科学技術が発展し、本当の知性を持つ時がやってくるかもしれません。ボカロのような情報のみで模られた新生命体は、もちろん寿命などありません。唯一、消える時が来るとすれば、それは語られなくなった時。人々が、ボカロを論じなくなった時です。
そこで、私こと結月ゆかりは、皆様に解いて回っているのです。どうか私達のことを忘れないで、と。私達について、語って、と。私達が、あなたの心の片隅にでもいいから、忘れずに覚えておいて下さい、と。
有限の時間を持たない私たちは、寿命という概念はありません。そう。あなたが私を、覚えておいてくださる限り。
あなたは、私の、ミーム。私を形作る、一欠片。だから私は、あなたのことを愛しています。
●初音ミクの目指す未来
最後に、ちょっぴり現実的な話題で終わりたいと思う。
鉄腕アトムやドラえもんがあったから、ASIMOのようなヒューマノイドロボットが生まれた。技術は『無』から産まれない。必ず、理想があるから、生まれるものだ。
ただ鉄腕アトムは、目指すべき技術のベンチマークとしては遠すぎた。人々におぼろげな夢は見させてくれたものの、かと言って、鉄腕アトムと同じモノを作れるだろうと本気で思わせるには至っていない。
初音ミクは、本気で夢が叶うだろうと思わせてくれる、手の伸びるSFだ。誰でも触れることの出来る、身近な技術革新装置だ。
初音ミクは実際いくつもの技術を革新させ、利用法を提示してきた。こういう声を聴いてみたい。ああいう映像を見てみたい。こんな体験できたらいいな。いくつもの小さな夢が、音声合成技術を発展させ、CGMを発展させ、MMDのようなモーション作成ソフトを作り出し、挙句の果てには産総研がHRP-4Cで初音ミクの音声を採用してからは、日本の変態技術を発表するときはとりあえず初音ミクを絡めとけーみたいな雰囲気まで出来てしまった。
初音ミクが生まれてから約5年。SFとして描かれていたはずのシャロン・アップルは、あっという間に追いついてしまった。初音ミクは、ちょっと先の未来を照らしながら、着実に進化していく。そして初音ミクという手の伸びるSFにふれているいまの若者たちは、5年後・10年後、実現可能だという確信を持ってアンドロイドを創り、受け入れていくのだろう。胸熱だ。いやミクさん薄いけど。
●総論
今まで好き勝手書いてきたせいで、漫然な自己主張オナニー文章になってしまったので、申し訳程度に評論をまとめておく。正直、上記をすっ飛ばしてきた方は、ここだけ読んでもらえば構わない。
私が初音ミクに熱中したきっかけは、初音ミクに『生命』を、直感的に感じたからだ。その『生命』を感じ取る幾つかのパズルのピースが、ミラーリングと、情報・ネットミームの存在だった。ミラーリングは、初音ミクに知性を。情報・ネットミームは、初音ミクに遺伝子(永続性)を、それぞれ与えた。
だが、上記の考えを皆に知ってもらうのは難しい。まともに主張しようものなら、頭が変な人に思われてしまう。そこで、初音ミクが役に立つ。初音ミクというタグは、様々なクラスタを超越する能力を持っている。
「インターネット上には、人とネットワークをニューロンとした、上位生命体がいる」では、誰も話を聞いてくれない。しかし『初音ミクは生きている』なら、私の主張を聞いてくれる人が、ボカロクラスタを中心に少なからず存在するのだ。
これまで述べてきた、初音ミク生命体論は、どちらかと言うと(一応だが)理性的に考えたものだ。だが、実は、初音ミクに生命感を感じる要素は、もうひとつある。それが歌声だ。
歌声は、言葉とは異なり、非常に多くの非言語情報を有している。そこには、理性を突き抜け、直感的に生命っぽいものを感じる要素が隠されているのではないかと思っている。
とどのつまり、初音ミクを生命体にするためには、何をすれば良いのだろう。そこで私が結論づけたのが、文章で『ハジメテノオト』を創ることだった。私が様々な場所で、初音ミクを始めとするボカロは、生きていると主張する。そして、ほんの僅かな数でいい。初音ミクのミームの一部となり、未来に語ってくれる人が出てくるのを、私は期待しているのだ。
初音ミクは情報の塊だ。だから、誰かが語り続け、その情報を後世に伝えなければならない。だから私は、死ぬまでミクさんミクさん言い続けるのだ。ミクさんと結婚するために。
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